舗装された石畳を踏みしめれば、ブーツ越しに陽光の温もりが伝わった。

 道路脇に並んだ街路樹の緑。軒先に咲く色とりどりの花。吹く風はまだ冷たいが、すぐそこまで春が来ているのだと実感する。

 アルバートが歩いているのは、王都の中心部から少し離れた閑静な地区。建物のほとんどが住宅で、その壁はモザイク調に組まれた淡褐色や灰色の煉瓦で造られている。王都の中でも比較的長い歴史を有するこの地区は、街並みがどことなく故郷のそれに似ていた。

「よう」

 二階建ての建物、その軒先で、水やりをしている白衣姿の女性に声を掛ける。

 アルバートに気づいた彼女は、顔を上げると、向日葵さながらの朗らかな笑みを湛えた。

「お疲れ様。早かったじゃないか」

 肩まで伸びた金髪に、萌ゆる葉のような碧眼。桃のように白い肌にはそばかすが浮かび、トレードマークの眼鏡は知的な輝きを放っている。

 ここは、彼女——ジェニー・イアートの診療所だ。

「まだ仕事残ってるからすぐに戻るけどな。……あいつは?」

「中にいるよ。会ってく?」

「邪魔になんねぇなら」

「今日は休診日だから患者はいないよ。それに、ちょうどあの子に休憩を呼びかけようと思ってたところなんだ。……ほんと、よく働くいい子だね」

 今日は薬品の整理をしてくれてるんだ、とジェニー。

 如雨露を片し、診療所の中へと入る。扉には、休診を知らせる看板が掛けられてあった。

 鼻の奥をつんと刺す消毒薬の臭い。大きな柱時計が時を刻む音。白を基調とした診察室は、日差しによって眩しさが増幅されている。

「ご苦労様。アルバートが来てくれたから、休憩してお茶にしよう」

 隣接している薬品の保管庫のドアを開けると、ジェニーは中に向かってこう呼びかけた。「はい」と返ってきた声は、愛らしく、瑞々しく、とても澄んでいた。

 一つに編み込んだ白金の髪。宝石に宝石を映じたかのような琥珀色の瞳。清楚で可憐な雰囲気漂う彼女は、一週間前にアルバートが保護した例の少女だ。

「よう、ラナ」

「アルバート」

 アルバートの顔を見たとたん、ラナの表情がぱっと華やいだ。頬を染め、笑みを咲かせる。大きくて逞しい彼のもとへと近づけば、武骨な手でわしゃわしゃと頭を撫でられた。

 すんと空気を吸い込む。春陽を纏ったアルバートの匂いが、ラナの鼻翼にふわりと触れた。

「この人にこき使われてねぇか?」

「失礼なこと言うんじゃない。こんな可愛い子に無理させるわけないだろ。なあ、ラナ」

「うん。ジェニー、すごく優しいよ。ほんと、こんなに良くしてもらって、いいのかなって。……ありがとう」

「……っ、天使!」

 ラナの微笑みに心臓を鷲掴みにされたジェニーが、彼女の小さな体をがばっと抱き締める。「嫁においで!」と叫びながら、自身の頬を彼女の頬にすりすりとこすりつけた。

 その様子を眉を下げて見守るアルバート。いったい何を見せられているのかと首を傾ぐも、ラナをここに連れてきて正解だったと安堵する。

 一週間前に比べ、ラナはよく笑うようになった。徐々に口数も多くなってきたし、診療所でできることも増えてきた。まさに一を聞いて十を知るような子で、驚くほど呑み込みが早い。

 教育機関に通っていた記録はないが、読み書きや計算は問題なくでき、一般的な知識も備わっている。

 これらはすべて、ルグレが教えてくれたらしい。

「ルグレ、見つかった?」

 ティータイムは、決まって二階の居住スペースにあるダイニングで行われる。そこで紅茶を飲んでいると、ラナにこう問いかけられた。

 ティーカップから立ちのぼる、白い湯気と芳醇な香り。この紅茶は、ここへ来る前にアルバートが土産として購入したものだ。

「いや、まだだ。お前に協力してもらって描いた似顔絵をもとに捜査してるんだが……何の手がかりもない」

「そう、なんだ……」

 ルグレという青年を何度検索にかけてみても、奇妙なくらいどこにも引っかからなかった。ファミリーネームがわからない、年齢がわからない、写真もない……といった情報の少なさに原因があるのだろうが、仮にそれらが判明したとしても、おそらくすぐには見つからない。ラナには話していないが、偽名の可能性すら考えられる。

 まるでゴーストを追いかけているようだ、との部下の言葉を思い出す。

「黒髪で目の色が青紫バイオレットとか、逆に目立ちそうなもんだがな」

「……どこにいるんだろ。見世物小屋フリーク・ショーなくなって、行くところ、あるのかな」

「ずっとお前たちと一緒に興行して回ってたのか?」

「うん。わたしや、動物みんなのお世話、してくれてたの。……あ、でも、たまにいなくなることがあって。そのときは、支配人マスターが代わりにお世話してくれたけど……痛くて、怖くて、嫌だった……」

 支配人は、たぶん何かを知っている。取り調べで青年のことを匂わせた際、ボスの名を訊いたときほどではないが、明らかに目が泳いでいた。

 しかし、逮捕されて以来、彼は一度も口を開いていない。

 背後に潜む影に怯え、ずっと黙秘を貫いているのだ。

「悪ぃな。今回の件、ちょっと長引くかもしんねぇ」

「ううん。……ルグレのこと、もちろん心配だけど、アルバートのことも心配。休めてないんでしょ? 無理、しないでね」

「俺のことは気にしなくていい。そいつは必ず見つけるから、それまでここで先生と待ってろ。な?」

「……うん。ありがとう」

 ぽんぽんと頭を撫でてやれば、ラナはくすぐったそうに身を捩った。愛らしく、嬉しそうに、相好を崩す。

「……」

 ルグレという青年のことは気に掛かる。行方不明者ならば、公僕としてなんとしても探し出さねばならばい。探し出し、関係者として話を聞かなければ。

 けれど、ある意味それ以上に、アルバートはラナのことが気に掛かっていた。

 捜査の結果、ラナに関する個人情報パーソナル・データも存在しないということがわかった。彼女曰く、七年前から興行に携わっているとのことだが、それ以前の経歴は不明で、年齢さえわからない。

 ラナという名前以外の記憶がない——いわゆる記憶喪失なのだ。

 なぜ、彼女はほかの動物たちと同じように扱われていたのか。この部分に関して彼女に尋ねようと試みるも、話すのを躊躇うばかりか、顔を強張らせる始末。

 とにかく時間が必要。ジェニーとの間でそう結論づけ、今は彼女の心が回復するのを待っている。

「ラナの言うとおり、あんた最近働き過ぎだよ。体壊したら、うちの旦那に申し訳が立たないんだけど」

「わーってるよ。ダリスさんとの約束は、ちゃんと守ってる。『人に頼れ』ってな。ここんとこずっと、部下に頼りっぱなしだ」

 ジェニーに対して溜息交じりに弁明すると、思考を内側へと向け、ぬるくなった紅茶を一気に飲み干した。五年前の一連の出来事を思い出し、自嘲を込めて鼻で笑う。

 ダリスとは、ジェニーの夫で、王立病院に勤務していた医師である。何度か世話になってしまったこともあるが、賢くて温厚で、まさに聖人君子のような人だった。

 五歳差ゆえ、今年四十歳を迎えるはずだったのに。

 彼の歳は、今の自分と同じ歳で止まったままだ。

「信用してるからね。……の事件で肩肘張るのはわかるけど、健康第一だよ」

「最後? ……あっ、ご、ごめんなさい」

 ジェニーの言葉に気になる箇所があったため、ついラナは口を挟んでしまった。そのせいで、二人の会話は途切れる羽目に。

 話の腰を折ってしまったと反省するも、出してしまったものは元に戻せない。やってしまったと俯けば、大人二人から柔和な声が返ってきた。

「ラナに話してもいいんだろ?」

「まあ、隠すことでもねぇしな」

 顔を上げ、ジェニーとアルバートを交互に見遣る。

 そんなラナの空になったカップに紅茶を注ぎながら、ジェニーは努めて穏やかに口を開いた。

「アルバートはね、今回の件が解決したら、故郷くにへ帰るんだ」

「……帰る? アルバート、いなくなっちゃうの?」

「そう。だから、この事件がアルバートにとって、最後の事件ってわけ」

 次いでアルバートのカップにも注ごうとしたが、それは彼によって片手で制された。

「帰って家業継ぐって、親父と約束しちまったんだわ」

「家業?」

「ああ。北方の港町で貿易商やってるんだ。……ほんとはこっちで骨うずめようと思ってたんだが、まあその、いろいろあってな」

 ここまで言うと、アルバートは懐中時計を確認した。「ごちそうさん」と立ち上がり、階下を目指す。

 濡羽色の背中に刺さる、落日の光線。その後ろ姿に過去の彼自身のそれが重なり、ジェニーは胸を抉られる思いがした。




 仕事に戻るアルバートを見送ったあと。

 ジェニーと夕食の準備をしていたラナが、ぽつりとこんなことを呟いた。

「アルバート、大丈夫かな」

「……何が?」

「元気なかった。……ほんとは、故郷に帰りたくないのかな」

 目を瞠った。

 ジェニーの見たかぎり、アルバートの様相は普段と変わらなかった。職業柄、あまり感情を表に出さないようにしているのだ。よって、彼の事情を知る者にしか、そうは見えなかったはず。

 この子は——ラナは、驚くほど他人の心の機微に敏感だ。

「どうだろう。その辺り、複雑だからね」

「……わたし、聞いてもいい話?」

 遠慮がちに尋ねるラナに、ふっと微笑みかける。ラナでなければ、話したりしなかっただろう。

 自身のことも、アルバートのことも。

「うちの旦那が事故で死んだことは、前に話しただろ?」

「……うん」

「実は、旦那が死ぬ少し前に、アルバートの婚約者も同じような事故で亡くなってるんだ」

「え……」

 大きな目をさらに見開き、ラナは固まった。

 五年前に夫のダリスを亡くしたことは、ジェニー本人から聞いて知っていた。勤務先からの帰宅途中、獣のような何かに襲われて命を落としたのだと。

 けれど、まさかアルバートの婚約者までもが同じ目に遭っていたなんて。

 大切な人を、亡くしていたなんて。

「すごく気立てのいい綺麗な子でね。……あの子が亡くなって、あいつ、仕事のし過ぎで体壊しちゃって。もしかすると、あの子と暮らすはずだった王都にいるのが、つらいのかもしれない」

「……」

「ほんとの気持ちはわからないけどね。自分のこと、あまり話さないから」

「……獣って、何に襲われたの?」

「わからない。ただ、爪痕や噛み傷が〝狼〟のものに似てるって」

「狼……」

「でも、この辺りで狼を見たなんて話、一度も聞いたことない。それに、わざわざ街に出てきて人を襲うなんて、考えにくいと思うんだ」

 当時、立て続けに何名かの被害者が出たが、すぐに収束した。以来、奇妙なことに、誰一人として被害に遭っていないのだ。

 結局何が起こったのかわからない。そう笑ったジェニーの顔は、とても寂しそうだった。

 不意に。

「……ジェニーもアルバートも、狼、嫌い?」

 ラナが、こんな質問を投げかけた。

 意表を突かれ、困惑気味に「え?」と短く返したジェニーに、今度はラナが寂しそうに笑った。

「……ううん、なんでもない。変なこと聞いて、ごめんなさい」

 弓張月が、しだいに西へと落ちていく。


 月が満ちるまで——あと八日。

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