俺の好きな子は基本愛しい

「ここで! ここでいいです!」


 1万円札を叩きつけるように渡すと、俺はお釣りも受け取らずにタクシーから飛び出した。


 あの日一緒に帰った道。たった一度。それでも俺はずっと覚えていた。


 花屋の隣にある、青い屋根の小さな一軒家。ここに、山吹さんはいるはずだった。


「はぁ、はぁ・・・・・・」


 全速力で走った反動で息が切れる。


 ・・・・・・誰もいない。


 カーテンはすでになく家の中は丸見え。まるでモデルハウスのように綺麗な内装を見て俺は絶望する。


 ――遅かった。


 そう、俺はいつだって遅いんだ。決断も行動も。それで今まであったはずのチャンスを逃して堕落していった。


 人生なんてつまらない。この世界はくだらない。そんな思い込みで自分自身の弱さを見て見ぬふりしていたのだ。


 今回もそう。山吹さんと離ればなれになるのならなおのこと話をしなければいけないのに学校に行くこともやめ逃げ続けた。分かってたはずなのに、勇気を出すのが遅すぎたのだ。


 あぁ、そうだ。これが俺の腐った性根でこれからの人生同じような過ちを何万回も繰り返す。人間性すら劣った俺が人並みの恋など出来るはずもなかったのだ。


「もう、早く取ってきなさいよ!」

「ごめんお母さん! すぐ戻るから!」


 前の方で大きなワゴン車が止まり、そんな声が聞こえたかと思うと後部座席のドアが開いて、たどたどしく走る人影。


「あ・・・・・・」

「えっ?」


 邂逅の瞬間。互いに時が止まった。


 頭の上からつま先まで、幻覚なのではないかと疑って見て、それが本物だと気付いて再び驚く。


「楠木、くん? うそ、なんで・・・・・・」

「山吹さん・・・・・・」


 もう一度、大好きな人に会うことができた。その声を聞くことができた。 


 目と目が合い、最初の一言目を必死に探す。無我夢中で走ってきたものだから、考えてすらいなかった。


 久しぶり? 前は悪かった? 違う。そんなことを言いに来たんじゃない。分かってる。でも、クソ・・・・・・。


「どうして、パジャマなんですか?」

「えっ? あっ!」


 俺はどうやら寝間着のまま来たらしい。そういえばタクシーの運転手も変な目で俺を見ていた気がする・・・・・・。やっちまった。


「これは、その。急いで出てきたから」


 額を流れる汗を拭く。開けた視界には、俺の見たかったその笑顔があった。


「ふふっ」


 口に手を当て、上品に笑うその仕草が俺はとてつもなく好きだ。


「おっちょこちょいなんですね、楠木くん」

「違うんだ。今日はたまたまでいつもこんなミスをしているわけではなくでだな」

「分かってますよ。でも、ちょっとおかしくて」


 いつものように会話をする俺たち。当たり前のように笑い合える時間が嘘みたいで、心が満たされていくのを感じた。


 ――なんだ。簡単じゃないか。


 悩んでいたのが馬鹿みたいだ。どう話せばいいかとかどういう顔をすればいいとか。


 そんなの、いつも通りでいいんだ。俺はいつも通りのこの空気がなによりも好きなのだから。


「山吹さん、もう。行くのか?」

「・・・・・・はい」


 本題を切り出すと、山吹さんは一瞬表情を曇らせて答えた。


「そうか」


 山吹さんが行ってしまう。その事実を目の当たりにして胸の奥が苦しくなる。


 でも、だからなんだ。


 まだ、粘るのか? まだ、うだうだ言ってるのか? 


 山吹さんが車に乗って、去っていく時にその言葉を叫ぶつもりか?


 違うだろ。追い込まれて、窮地に立たされてようやく本気を出すような人間は、もうやめた。やめようって心に決めたんだ。


「山吹さん!」


 だから言うんだ。


 互いのことも分からずにぎこちなく話した朝早くの教室。


 お婆ちゃんを見送って立ち尽くしていた俺に声をかけてくれた夕方の街中。


 愚かな行為を姑息な手で誤魔化した俺を疑うこともなく信じてくれたあの日の廊下。


 悩みを聞かせてくれて頑張ってみると言ってくれた校庭。


 初めてラインを触って子供みたいにはしゃいだ無邪気な笑顔。


 一緒にサンドイッチを食べて映画も見て俺なんかとデートをしてくれた休日。


 そのどれもが俺にとってかけがえのない時間で、とても。とっても。


「ありがとう」

「楠木、くん?」

「俺と仲良くしてくれてありがとう。俺なんかと一緒にいてくれて、ありがとう。俺、山吹さんと知り合えて本当に良かった。人生なんて楽しいことなに一つありはしないなんて思ってたのに、山吹さんと過ごすうちに毎日が楽しくなっていった・・・・・・! 明日が来るのが楽しみで、学校に行くのが楽しみで! 本当に、本当に・・・・・・っ!」


 滲む視界。震える唇。


 泣くな。ここで泣いたら全部台無しだ。


 言い終わるまで、絶対に――。


「あり、が・・・・・・ぅ、あ・・・・・・り・・・・・・あれ、なんで・・・・・・くそ、ダメ、だ。ダメなのに・・・・・・ぐすっ、山、吹さん・・・・・・」

「楠木くん・・・・・・」

「ぅ、うぅ・・・・・・」


 ボロボロと、滝のように涙が溢れてくる。頬を伝い、顎に滴り、止まらない。


 初めて人を好きになったからこそ分かる、尋常じゃない辛さ。


 お前はフラれたんだよ諦めろ。諦めの悪い男はダサいぞ。


 自分に言い聞かせるも、感情は簡単に言うことを聞いてくれない。


「これ、使ってください」


 目の前に綺麗な白のハンカチが差し出される。


 山吹さんは、優しいな・・・・・・。こんな時でも誰かに気遣いができて。


 それに比べて俺は、惨めに泣いてばかり。

 

 ずず、と鼻水をだらしなく吸いハンカチを受けとる。そして礼を言おうと顔を上げた。


「――ッ」


 そこには、俺と同じように大粒の涙を流し佇む山吹さんがいた。


「おかしいです。楠木くん。私は、あなたを一方的に心の拠り所にしておきながら、踏み込まれた途端拒絶したんです。それなのに、どうしてこんなひどい私にありがとうと言えるんですか」

「そんなの――」

「私のほうが・・・・・・ッ!」


 聞いたこともない山吹さんの叫び声。


「私のほうが・・・・・・ありがとうって言わなきゃダメなのに・・・・・・」

「山吹さん・・・・・・?」

「私のほうがずっとずっと、ずっとずっとありがとうなんです! 楠木くんのおかげで私の世界がどれだけ変わったか! 本の世界に逃げ込んでばかりの灰色の私にどれだけの色を付けてくれたか! 楠木くんのおかげで私はここまでがんばれたんです! 楠木くんのおかげで私はこんなにも・・・・・・変われたんです」


 俺の、おかげ? 馬鹿な。俺が何をした? 何もしていない。俺は何もしていないのに。


「最初は、憧れでした。誰かを喜ばせたり、誰かを笑わせたり、私に絶対できないことを進んで遂行していって、すごく、努力をしていて本当にすごいなって。そんな楠木くんをずっと目で追っていたら、いつの間にかそれが全然知らない、今まで宿したこのない感情に変わっていくのが分かったんです」

「それって・・・・・・」

「その感情が本物だって分かったからこそ、私は楠木くんのために何かをしなきゃって思いました。自分を犠牲にできるほどの何かを。だから私は、自分の欲を無視して、楠木くんの告白を断ったんです」


 ぎゅっと手を胸の前で握る。


「離ればなれになるのが分かっているのに受け入れることはできなかった。それをしたらきっと楠木くんに寂しい思いをさせてしまう。悲しい気持ちにさせてしまう。だから、拒絶こそが、相手のことを想った、本当の好きだって信じていたから」


 それは、確かあの映画でも話したことだ。


「でも・・・・・・っ!」


 いつもの落ち着いた表情を崩し、縋るように。叫ぶように。


「私も・・・・・・っ! やっぱり離れたくないですっ! だって、こんな、こんなにも・・・・・・っ!」


 まるで、羽毛のようだった。


 俺に抱きつく山吹さんは、柔らかくて、温かい。いつか抱いた、守ってあげたい。そう、再び想わせてくれる愛らしい心地。


「好き、なんですから」


 耳元で囁かれたそのセリフが、信じられなかった。


「ほん、とうに・・・・・・?」

「当たり前です。私、ずっとずっと、楠木くんのことしか考えてなかったんですよ? 部屋にいるときも、授業中も。ずっと、ずっとです」

「マジか・・・・・・俺も、山吹さんのことばっかで悩んでた。どうすれば一緒にいられるのか。何をしたら笑ってくれるのか。何回も頭の中でシュミレーションしてた。気持ち悪いだろ?」

「それは・・・・・・お互い様です」


 冗談めかしたその物言いに、互いに笑った。


 あぁ、これがきっと幸せっていうんだ。


 そしてこの幸せを感じれる相手に抱く感情こそが、ホンモノの好きってやつなんだ。


「えっと、じゃあ俺たち、付き合うってことで・・・・・・いいのか?」

「・・・・・・私は、それが・・・・・・いいです」

「それっていうのは?」

「だから、その・・・・・・あぅ、言わなきゃダメですか?」

「言わなきゃ分からないだろ」

「うぅ」


 顔を真っ赤にして、俯く山吹さん。


「楠木くんの、彼女に。なりたいです」

「・・・・・・」

「な、なんですかその顔っ」

「いや、可愛すぎた」

「~~~~っ!」


 やばい、なんだこれ。互いの気持ちを通じ合わせた途端。山吹さんが今までより何倍も可愛く見える。これが恋人マジックか。


「ちょっとまだ!? 飛行機乗り遅れちゃうわよ!?」


 と、そこで前のワゴン車から山吹さんの母親らしき人物が現れる。


「お、お母さん」

「早くしてよ? 友達とのお別れの挨拶もいいけど、もう待てないからね?」

「と、友達じゃないよお母さん! この人は・・・・・・その」

「彼氏です」


 言うと、山吹さんもこくっこくっと頷いている。


 山吹さんの母親は特段驚いた様子はない。多分、おおよそは分かっていたのだろう。


「まぁなんでもいいから。なるべく早くね」

「待ってお母さん!」


 山吹さんが踵を返そうとする母親の腕を掴む。


「私、行きたくない!」

「はぁ!? ここまで来て何言ってるの!? その話は前に解決したじゃない」

「そ、そうだけど! やっぱり私ここにいたいの! 楠木くんと一緒にいたいの!」

「そんなこと言われてもお婆ちゃんにはもう旅館を継ぐって形で話は通したし――」

「俺からもお願いします!」


 前に出て、頭を下げた。


「俺も山吹さんと一緒にいたいんです!」

「あのね、親元を離れた未成年の女が一人で生きていけるの? 家は? 食事は? あなたが面倒みれるの?」

「それは・・・・・・」

「きつい言い方をして悪いわね。別にあなたを責めているわけじゃないのよ。でもね、世の中にはどうしようもないことってあるの。嫌でも受け入れなくちゃいけないものがね」


 分かっていた。俺たちが言っているのは子供のワガママでしかない。大人からしてみれば青臭い餓鬼共の恋愛ごっこ。


 くそ、ここまでなのか・・・・・・。


「おい母さん!」


 そこで、今度は父親がワゴン車から降りてくる。


「なによ、ってエンジンかけっぱなしじゃない! 早く戻って――」

「お婆さん、回復したって!」

「え?」


 俺を含めその場の全員が父親の方を向き声をあげた。


「で、でもお医者さんは絶対に完治はしないって!」


 そうだ。確か前に山吹さんもそう言っていた。


「俺も電話で聞いたときは信じられなかったんだが、お医者さんも驚いていたよ! 見事なまでに治っている、再発の可能性もまるでない。むしろ前よりも元気になったって! こんな現象は見たことがない。まるで――」


 父親は言う。


「まるで、神様のいたずらだって!」


 山吹さんも母親も目を丸くしている。


「それからお婆さんからも伝言! 『あたしゃまだまだ大丈夫。あんたたちの出る幕はないよ!』だそうだ。はははは! 声からも本当に元気なのが伝わってきたよ。だから旅館は大丈夫だ」


 嬉しそうな父親の笑顔は、どこか山吹さんに似ていてやっぱり親子なんだなと思った。


「でも、せっかく飛行機取ったし。そうだな、今回は旅行ってことにしとくか!」

「はぁ・・・・・・」


母親が、頭を抱えてため息をつく。


「まぁ、治ったのなら喜ばしいことね。お母さんだって急に旅館に戻ることになって今の職場に迷惑をかけていたところだし」


 そうして、鋭い視線が俺を射貫く。


「楠木くん、だったわね?」

「は、はいっ!」

「うちの子、すごい鈍くさいわよ? 卵一個綺麗に割るのに20分もかかるし」

「お、お母さん! それは言わないでっ!」


 もしかして、前にサンドイッチをごちそうしてくれた時のことだろうか。


 てっきり料理が得意なのかと思っていたのだが、実は苦手だったのか?


 一生懸命卵を割る山吹さんを想像するとちょっと面白かった。


「本ばっか読んでるし、一緒にいても楽しくないわよ? 内向的で話下手で。いいとこなんて顔くらいよ。まぁそれは私の娘なんだから当然ね」


 俺は想わず苦笑い。


「で、どうなの? 楠木くん。こんな娘だけど。あなたは後悔しない?」

「しません」


 はっきりと言い切った。


「その全部が、俺は好きです。ダメなところがあるなら一緒に直していきます。苦手なことがあるなら一緒に克服していきます。ただ好き合うだけじゃなく、そうやって一緒に歩んでいけたらって、俺は思ってます」

「楠木くん・・・・・・」


 言い切った。嘘偽りはない。これが俺の本心だ。


「そう」


 言って、母親は踵を返し。


「うちの娘を、よろしくね」

「・・・・・・はいっ!」


 俺は大きく、自分に言い聞かせるように言った。


「あ、せっかくだしいいことも教えてあげないとね。その子、脱ぐと結構すごいのよ」

「マジっすか!?」

「えぇ。細身だから着痩せするのかしらね」

「もうもう! お母さんったらさっきから余計なことばっかり!」


 ぽかぽかと母親を叩く山吹さんが可愛らしくて思わず笑ってしまう。


「盛り上がってるところ悪いけど、飛行機はどうするんだ? 一応キャンセルもできるぞ?」


 父親が気を利かせてそんなことを言ってくれる。


 山吹さんはチラりと俺を見てくる。


「行ってこいよ。お婆さんも会いたがってるんじゃないか?」

「でも・・・・・・」


 山吹さんの言いたいことは分かる。俺も一緒にいたい。


 せっかく恋人同士になったんだ、この時間をもっと味わっていたい。


 だけど。


「大丈夫だ。これから俺たちはずっと一緒にいるんだからさ」

「楠木くん・・・・・・」


 ちょっとの間、別れるくらいなんてことはない。これから共にする時間に比べたら安いものだ。


「えへへ、ありがとうございます。大好きですっ」


 山吹さんのその笑顔は、今まで見た中で一番の笑顔で。


「俺も大好きだっ!」


 俺もきっと、今までの人生で、一番輝いた笑顔をしているんだと思う。でもきっと、これから何回も最高の笑顔ってやつは更新されていく。いや、そうできるように俺たちは前に進むんだ。


 そうして俺は最後に山吹さんの両親と握手を交わし、遠ざかっていくワゴン車を晴れ晴れとした気分で見送ったのだった。

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