首から洗う子は基本かわいい

 次の日、俺はいつもより神経を研ぎ澄ませ、周りに目を配らせていた。


 顔を洗い、歯を磨こうと歯磨き粉のキャップを取って中身を出そうとする。


 しかし、ポスッと空気の抜ける音と共に白いクリームが微量に出てきただけだった。


「母さーん! 歯磨き粉、もうなくなるぞー!」


 普段ならこんなこと、言わなかったと思う。俺の分さえ足りていれば黙っていても誰かが買ってきてくれるからだ。


 だが、今日の俺はひと味違うぞ!


 俺が今ここで歯磨き粉がなくなりそうなことを告げなかったら、遅かれ早かれ家族の誰かが歯磨き粉なしに歯を磨くことになる。


 しかし、先に母さんに伝えることによってそれを回避することができ、俺は家族にとって、消耗品の残量を教えてくれる価値のある人間となるわけだ。


「あらそう? じゃあ帰りに買ってきてくれる?」

「えっ?」

「なによ」

「いや、うん。わかったよ」

「じゃあ頼んだわよ」


 ドアから顔を出した母さんは、それだけ言ってすぐに引っ込んでしまった。


 ・・・・・・あれ? なんか思った展開と違ったぞ。



 ゴミ袋を持って家を出ると、公園の近くに設置されたゴミステーションで、なにやら言い争いをしている二人組を発見する。


「だからよー、じいさんさぁ。困るんだってこんなところに捨てられちゃ」


 片方は知らない30代くらいの男性で、もう片方はよくすれ違う、あの無愛想なおじいさんだった。


 男性の方は捲したてるように話しているがおじいさんは相変わらずの仏頂面で黙り込んでいる。


 ・・・・・・多分、話を聞く感じ、おじいさんが捨ててはいけない場所にゴミを捨ててそれを男性に咎められているのだろう。


 それは俺にとってなんの関係もないことで、このまま見て見ぬフリをすればいい話なのだが。今日ばかりは、顔を突っ込まざるを得なかった。


「あの、すみません」


 俺が声をかけると、男性は眉間にしわを寄せたまま俺を見た。


 それは別に怒っているというわけではなく、どちらかというと困っているような表情だったので俺もなるべく落ち着いた口調で話を続ける。


「そのおじいさんなんですけど」

「え? あぁ、ちょっとね。ゴミを毎回指定の場所に捨ててくれないから注意してたんだよ。でもこの通りなんにも喋ってくれなくてね」


 はぁ、と男性はひとつため息をつく。


「その人、話せないんですよ。以前病気で舌を切除していて、だからあまり責めないであげてくれませんか」


 俺はミコトに言われたことを思い出し、おじいさんの肩を持つつもりで男性を宥めた。


「えっ、そうなの」

「はい。きっとおじいさんも十分わかったと思います。なのでこの辺にしてあげてください。それに俺も別の場所にゴミを捨てちゃうことよくありますし、ははは」


 場を和ませようと、俺は苦笑いしつつ片手に持ったゴミ袋を持ち上げてみせる。


 話すことのできないおじいさんの代わりに俺が代弁する。これはおじいさんにとってはありがたく喜ばしいことのはずで俺は確かに価値のある人間になれるはずだ。


 顔色を伺うべく俺はおじいさんの方を見た。


「・・・・・・・・・・・・」


 おじいさんの顔には・・・・・・鬼が宿っていた。


「訳の分からないことを言いおって」

「あ、あの?」


 って、あれ? 声、出てますけど。


「ワシの舌は切ってなどおらぬわ! この通りピンピンしておるしそこらの若造より声も出る! 貴様もワシをバカにする気か!!」

「そ、そんなつもりじゃ・・・・・・」


 大地を揺るがすほどの怒号に足がすくんでしまい声が上手く出ない。


「今すぐワシの前から立ち去れ!!!! この青餓鬼がぁぁぁぁぁあぁぁ!!!!」

「ひいいいいいいいいい!!」


 驚きのあまり猫のように飛び上がると、手に持っていたゴミ袋を放り投げて俺は一目散に逃げ出した。


 なんだよ! ミコトのやつ適当なこと言いやがって! あのおじいさん全然喋れるじゃないか!!



 息を切らしながら学校につくと、クラスメイトの男子が気怠そうに歩いているのを発見して「おはよう」と挨拶をした。


「あぁおはよう楠木、はぁ・・・・・・」

「どうしたんだ? 元気がないように見えるが」

「今日さぁ、俺日直なんだよなぁ。だから日誌取りに行かなきゃじゃん? あと水やりに黒板も拭かなきゃだし。1限の国語の小テストに向けて勉強したかったのによー」


 短い髪を掻いてまたもやため息。


「俺、変わろうか?」

「え、マジ?」

「あぁ、特に用事もないしさ。先生にも俺の方から適当に言っておくよ」

「うっは! サンキュー楠木! じゃあ頼むわ!」

「おう」


 俺が快く了承すると、クラスメイトの男子は笑顔で階段を昇っていった。


 ・・・・・・今のはいい感じなんじゃなかろうか。



「ねー楠木くん、これもお願い」

「あぁ、わかった」

「なぁ楠木~掃除当番変わってくんねー?」

「いいぞ」

「頼むよ楠木! 今日バイト入っててさ! 僕の代わりに新作ゲーム買ってきてくれないか!」

「え? お、おう」

「楠木ってどいつ? あー、あれね。おーい、俺も頼みがあるんだけどさー」

「どうした」

「楠木! 一生のお願いだ! あの子のパンツこのスマホで撮ってきてくれ」

「別にいい・・・・・・のか?」


 今日の学校は、一日中こんな感じだった。


 俺がなんでもかんでも手伝ってたら、それに便乗して他の人も俺に頼み事をするようになってしまった。


 途中なんて何故か学校の庭のゴミ拾いや補修の替え玉(当然すぐにバレた)などもしていた。


 確かに俺はみんなにとって都合がよく、頼みを聞いてくれる価値のある人間でいた。いつもは話さないような人とも話したし、都合のいい人間に人が寄ってくるという話は本当みたいだ。


「でも・・・・・・」


 本当にこんなんでいいのだろうか。


 みんな笑ってはくれているが、喜ばせることが本当にできているのだろうか。



 帰宅途中、歩道橋の下で荷物を抱えたおばあちゃんが目に入った。


 大きなカバンを持ちたいようだが、腰も曲がっているしあれを持って歩道橋を渡るのは難しそうだ。


 本当なら、助けたい。


 困っている老人を助けるなんて分かりやすすぎる展開、今の俺にとってはボーナスステージみたいなものだ。


 しかし、俺は迷っていた。


 これが本当に誰かを喜ばせることになるのだろうか。


 朝のように、余計なお世話になるかもしれない。


 学校でのことのように、ただの便利な召使いのように扱われるだけかもしれない。


 ミコトは、人を喜ばせるのなんて簡単なんて言っていたが俺はその難しさを肌で感じていた。


『今まで普通に生きてきて、一人も彼女いないじゃん。じゃあさ、もうつべこべ言わずにチャレンジっしょ? 今まで通りに生きてたら絶対に彼女なんてできないんだから、理屈がどうとか言ってる場合じゃなくって、即行動! キミはもうそういう次元にいるの、おわかり?』


 ・・・・・・・・・・・・。


 そう、だよな。


「おばあさん、荷物運びますよ」

「ん、そうかい? 悪いねぇ」

「いえ」

「じゃあこれを持って渡ってくれるかい?」

「分かりました」


 大きなカバンを持ち上げると、中でガチャ、と音がした。骨董品でも入っているのか? 慎重に扱わないとな。


 持ってみるとそれは結構な重さで、俺は額に汗を浮かべながら歩道橋を渡った。


 常日頃の運動不足だな。


 膝をプルプル震わせながらなんとか渡りきり、あとからおばあちゃんも辿り着く。


「こっちの車線にくれば、あとは大丈夫だよ」


 そう言っておばあちゃんは手を上げタクシーを一台とめた。  


「ご苦労様」


 俺からカバンを受け取るとおばあちゃんはそれだけ言ってタクシーに乗り込み、去っていってしまった。


「・・・・・・」


 俺は別に、お礼を言われたいからあのおばあちゃんを助けたわけじゃない。それは分かってる、分かってるのだが。なんだろう、この不安というか焦燥感というか。変な胸のざわつきは。


「なんか、疲れたな」


 誰かのために動いても、なんの見返りもないまま一日が終わろうとしている。


 ミコトのお告げを信じて頑張ってみたけど、結局。こんなものなのかな・・・・・・。


 俺が、そんな風に弱気になっている時だった。


「楠木、くん?」


 声がして、顔をあげるとそこには山吹さんが立っていた。


「あ、れ? 山吹さん。もしかして今帰り?」

「はい。私の家、そこの交差点を左に曲がったところにあるんです。ほら、花屋があるじゃないですか、その隣です」

「あぁ! あそこ!」


 そうだったのか。山吹さん、以外と近くに住んでたんだな。


 そんな会話をして、気付くと俺と山吹さんは並ぶようにして歩いていた。


「さっきのおばあちゃんはお知り合いですか?」


 ちょっとの無言のあと、そんな話題を振られる。どうやら見られていたみたいだ。


「いや、全然知らない人。なんだか困ってたみたいだったからさ、ちょっとお節介かもしれなかったけど荷物を運んでたんだ」

「そうだったんですね」


 山吹さんはどこか優しい表情で俺を見て、そして笑った。


「なんだか、嬉しいです」

「え? なんで山吹さんが嬉しいんだ?」

「あ、いえ。その、やっぱり、思った通りの人なんだなって」

「?」


 いまいち、山吹さんの言いたいことが分からずに俺は首を傾げると、山吹さんは「なんでもありません」と言って、再び笑って見せた。


「では、わたし。家そこなので」


 気付くと、視界に花屋が見えて、その隣に綺麗な一軒家が見えてくる。


「あーここだったのか。俺もこの辺に住んでてさ、よく通ってたんだよここ」

「そうだったんですね」

「あぁ」


 ・・・・・・。


「あのさ、山吹さん」

「はい? なんでしょう」

「誕生日って、いつ?」

「え? えぇっと、4月21日ですけど」

「じゃあ、好きな食べ物は?」

「お団子が好きです」

「おぉ、つぶあんとこしあんだったら、どっち派?」

「そうですね、どっちっていうのはあんまりなくって。前にこしあん食べたから、今日はつぶあん、みたいな感じですかね」

「そしたらさ、体を洗うときってどこから洗う?」

「えっ?」


 ぼんっ、と音を立てて顔を赤くする山吹さん。ヤバイ、さすがにこれは踏み込みすぎたか。


「く、首からです・・・・・・」

「そ、そうか! ちなみに俺は左腕からだ!」


 って、俺の情報はどうでもいい。


「悪い、呼び止めて」

「いえ、ふふっ。大丈夫です」


 口元を押さえて、可愛らしく笑う山吹さん。


「それじゃあ、楠木くん。また明日」

「あぁ、また明日」


 手を振って、山吹さんを見送る。


「・・・・・・」


 どうしようもなく落ち込んでいたけれど、今になってみれば今までで一番充実した一日であったのと同時に、今までで一番、前に進めた日でもあるように俺は思えた。


 人を喜ばせることは、なにも喜んでくれなかったらそれは失敗ということではなく。誰かのために動く、その姿勢自体が大事なのかもしれないと自分なりの答えを出してみる。


「首からか・・・・・・」


 いつか見た山吹さんのうなじを思い出しながら、俺は軽い足取りで帰路に就いた。


 多分、そんな風に浮き足立っていたものだから、帰りに歯磨き粉を買うのをすっかり忘れていたのだと思う。

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