マイホーム

槇鳥 空

浴恩館公園

「あ、アメンボ。」

愛は赤いランドセルを跳び箱のような大きな石の上に置くと、そこによじ登り、しゃがんで小川を覗き込んだ。少し湿った、ぬるい風がそよそよとポニーテールを揺らしている。木漏れ日がキラキラと反射する水の上を、数匹のアメンボ達が足早に通り過ぎてゆく。

「ねー、なんかカナブンみたいのが泳いでる、すっごい大きいやつ。これ何だろう?」

愛は透き通る水流に手を入れると、じゃぶじゃぶと水面を掻き回した。

「カナブンみたいの?タガメじゃない?黒いやつ?僕、カタツムリ見つけたよ。しかも、親子だ!」

冬樹はたわわに咲いた空色の紫陽花の、巨大な葉の上をゆっくりと進んでいく二匹のカタツムリを見つめている。前日の雨でまだ水滴がちらほら残った鮮やかな緑色の葉っぱには、カタツムリ達の透明な足跡がヌルヌルと光っている。木片チップが撒かれた湿った土壌は、一歩進むたびにふわふわと柔らかい。冬樹はランドセルの肩ひもを両手で握りしめたまま、腰を屈めてカタツムリ達の後を追いかけた。二匹のカタツムリ達は、葉を滑り降りるように急いで紫陽花の花の下に隠れてしまった。冬樹が下から覗き込むと、根元から大人の手のひらほどはありそうな、立派なガマガエルが飛び出して来てワサワサと花束を揺らした。

「うわっ。」

驚いた冬樹は思わず尻餅をつき、自分のランドセルに後頭部をぶつけた。愛は冬樹の小さな騒動に振り返ると、石から飛び降りてやって来た。

「大丈夫?何見つけたの?うわっ、大きいカエル!!重たそう。」

冬樹は愛の手につかまり立ち上がると、半ズボンのお尻をパタパタとはたいた。

「泥だらけになっちゃった。お前のせいだぞ、カエル!」

「すぐ乾くよ。ね、お池の魚見に行こうよ。」

二人はせせらぎの脇の小道を浴恩館の裏手に曲がった。暖簾のように低く垂れ下がった若緑の柳の枝を左右に分けて、小走りに石橋に向かう。二人のお気に入りの場所。

「愛ちゃんは、夏休み何するの?」

二人は池にかかったジグザグの石橋の上に腰を下ろした。

「んー、お山のお家に行くよ。八月になったらね。ふー君は?」

愛は水の上で足をブラブラさせながら、何か寄ってこないかと、深緑の水面に目を凝らした。

「そっか。いいなあ。僕は、夏期講習だって。四年生からって言ってたのに、お隣の文ちゃんが行くからって、僕もこの夏から行きなさいだって。三鷹まで行くんだよ?わざわざ、嫌だなあ。あ、そうだ、麦チョコ、食べる?さっき帰る時に将太のお母さんがくれたんだ。」

冬樹は体操着袋の中から、大きな麦チョコの袋を取り出すと、ゆっくりとこぼさないように気をつけて開けた。

「麦チョコ、大好き!」

愛は両手をお皿のように広げた。冬樹がザラザラと麦チョコを出すと、愛の手から何粒か溢れて池にポチャポチャと可愛いらしい音を立てて落ちた。するとすぐにいくつもの口が水面に現れ、バシャバシャと餌を取り合った。

「あ!鯉かな?今の!なんか今日は水が濁っててあんまり分かんないね。」

愛はそう言うと上を向き、両手で麦チョコを頬いっぱいになるまで口に流し込んだ。その拍子に、またポチャポチャと数粒が池の中に溢れ落ちた。冬樹は水面をじっと見つめながら、頷いた。

「うん、灰色の中くらいのやつだね。三匹。こないだ見た、赤くって大っきい奴は、今日はこないのかな。」

冬樹はランドセルを枕にすると、足を橋からぶらりと垂らしたまま、寝転がった。高いクヌギの木が程よい影を作り、二人を焦げるように照りつける太陽から守っている。肌に張り付くような湿気に、汗がジワリと滲んでくる。冬樹は吸い込まれそうに青い空をじっと見つめた。遠くには、巨大な雷雲が灰色に広がっている。

「また夕立が降るな、きっと。ね、お山のお家って、どこにあるの?」

冬樹は風に揺れる愛のポニーテールに寄って来たミツバチを手で払った。

「んー?知らない。すっごい遠いの。車で5時間もかかるんだ。くねくねした道をずーっと行くんだよ。でも涼しいよ。東京よりね。」

「じゃあ、夏休みは会えないね。僕は塾、愛ちゃんはお山。」

愛は寝転がった冬樹の顔を覗き込むと、

「ふー君、寂しそうな顔してる。」

と言って笑った。

「また、新学期が始まったら、一緒に帰ろうね。」

愛は小指を冬樹に差し出した。冬樹はうなづいて指切りをした。



「ねえ、覚えてる?ここ、僕らが最初にデートした場所。」

冬樹は次郎橋のてっぺんで立ち止まると、欄干に肘をついて水のない仙川を覗き込んだ。

「あー、よく遊んだね、学校の帰りに。え、あれデートだったの?」

一歩前を歩いていた愛は振り返り、目を丸くして笑った。

「大学で再会してから、一緒にディズニーランドに行ったのが初デートだと思ってたよ。」

ずれ落ちて来た抱っこ紐の肩紐を背負い直しながら、愛は懐かしそうに木漏れ日の落ちる散歩道を見回した。

「当たり前だろ、僕にとっては、毎日放課後が楽しみだった。お前が5年生の秋に引っ越しちゃった時は、本当に寂しかったんだ。おい、あんまり大声で笑うと夏希が起きちゃうぞ。」

冬樹は抱っこ紐の中で気持ち良さそうに寝ている娘の顔を覗き込んだ。

「翔、あんまり遠くいかないでよー!」

愛は娘の耳を両手で覆ってから、池に向かって走っていく息子に大きな声で言った。

「追いかけよう。」

冬樹は愛の手を取ると、早足に歩き出した。

「私たちの石橋、そのまんまだね。」

愛は冬樹を見上げて微笑んだ。

「あの頃は、愛の方が背が高かったのが、実は悔しかったんだ。」

そう言うと冬樹は愛のおでこにキスをした。

「今は、僕の勝ちだ。」

翔は両手を前に出し、枝垂れ柳をスーパーマンのような体制で走り抜けると、石橋の真ん中で立ち止まった。

「お母さん、見て!大っきい赤い鯉がいるよ!亀もいる!早く!」

「赤い鯉だって、あの時と同じやつかな?」

愛は目を大きく見開いた。

「行って見よう。鯉って、50年以上生きるやつもいるらしいから、もしかしたら同じやつかもよ。」

二人は小走りで石橋に行くと、しゃがみこんで深緑の濁った水面を覗き込んだ。

「お母さん、夏希のオヤツ、このライスクラッカー、投げたらまた出てくるかも。僕、ちょっともらっても良い?」

翔は夏希のオムツ鞄から、食べ残しのライスクラッカーを取り出すと、細かく割って水に投げ込んだ。

すると、水面に大きな波紋がゆっくりと浮かび、赤い立派な鯉が顔を覗かせ、パクパクと飲み込むと、また濁った水の中に消えていった。

「見た?!おでこに白と黄色の斑がある、赤い鯉だったね。いつものやつだね。」

愛は満面の笑みで冬樹を振り返った。冬樹はいつの間にか寝転んで空を見上げていた。

「ね、やっぱりいいね。引っ越し、この辺にしよっか?」

愛は、眩しそうにひそめられた冬樹の目を覗き込んで言った。

「何、昨日まではもっと都心が良いとか言ってたじゃん。メモリーレーン作戦、功を奏したかな。」

冬樹は体を起こすと、横に座っている愛の肩を抱き、もぞもぞと抱っこ紐の中で動き始めた娘の頭を優しく撫でた。

「仕事場までも1時間かからないし、駅前にモールも出来たしなぁ。家、この辺りで探そうか。」

「うん。翔と、夏希にも、ここで運命の相手と『初デート』、して欲しいじゃない?」

二人はおでこを寄せ合うと、ふふふ、と笑った。

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