終.
終.
廃都東京は、その日も雨だった。
氷のように冷えた有毒雨の中で、男は建造物の軒先にいた。雨宿りをしながら紙巻煙草を咥え、マッチで点火すると、一度大きく呼吸をした。紫煙が口元から溢れる。
足元に銀の猫型アニマロイドを伴い、男は暗い空を見上げている。そこに見えるはずのない星を探しているような目に、感情は見当たらなかった。
左側頭部の二本の切創痕に手をやりながら、男は右手で煙草を一度口から離す。そして、肺に溜め込んだ分の煙を吐き出した。
「姐様たちから今週の物資が届いたよ」
女の声が聞こえる。男は振り返ると、ああ、と一言だけ発してから顔を戻し、変わらず空を眺めている。
「何か見えるのかい」
男はもう一度、同じように声を出した。
「有毒雨に風情なんてないだろうに」
女は、男の足元にしゃがみ込むと、アニマロイドの頭を撫でた。アニマロイドが、気持ちよさそうな顔をして、目を細める。
「そこに見えなくても、あるものが、俺には見える気がするんだ」
「スピリチュアルな話かい」
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
女がアニマロイドを抱き抱えると、男は女の横顔を見た。彼女も同じように空を見上げている。
「何かお前にも見えるか」
「あたいには重苦しい空だけだね」
そうだろうな、と男は言った。女が、さて、と言いながら振り返り、歩み出す。
「さあ、物資の分配やら復興やら後始末やら、やることは山積みだ。気が済んでも済まなくても、早く戻ってくるんだね」
男は、無言で紙巻煙草を口元に戻すと、一服だけして、吸殻を小さな防火ケースに詰め込んだ。今行く、とだけ言葉にして、しかし、男は立ち尽くす。
雷鳴が轟く。
誰かの声が聞こえたように思い、男は防毒マスク片手に有毒雨の下に歩み進んだ。
誰の声も聞こえはしなかったが、彼は期待した。誰かが自分の名を呼ぶことを。誰かが温かな腕に自らを抱くことを。
しかし、何者もそれを現実のものとはしなかった。
男は俯きながら、全身を氷雨に濡らす。
その頸部には、端末接続用の端子が、なかった。摘出された手術痕と、焼いて塞がれた小さな穴だけがあった。誰も、彼を操ることなどできない。
左手の防毒マスクを、男は顔に近付けた。
この先、彼がいかにして歩むかは、誰にも分からない。彼がそれを決めるのだから。
廃都東京は、その日も雨だった。
了
東京、雨降りしきる廃都 服部ユタカ @yutaka_hatttori
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