第13話 秀吉のオトリ作戦にシビレる場合じゃなかった
清水谷に到着すると、九兵衛は「
「簡単だな」
「浅井の軍規は乱れている。寝返りも多いが、それでも気をつけよ。ここは敵の本拠地だ」
「うん。で、これから」
九兵衛は黙って先を急いだ。
月明かりに照らされた夜道、闇に慣れた目にはそれほど暗いとは思わない。
天を見上げると満天の星が美しかった。今朝方、雨が降ったせいか埃もたたず、くっきりと星が見えた。
私は思わず、ほうっとため息をついたとき、九兵衛が袖を引いた。
「こっちだ」
「この屋敷?」
「そうだ。入るぞ」
屋敷の門をくぐると
薪のパチパチと燃える香ばしい匂いが漂ってきた。
正門の近くは、すし詰め状態で兵が立っている。まるで、朝8時の通勤ラッシュの山手線の状態だった。
「いったいここにどれだけの兵が」
「たぶん、200はいるだろう」
200人?
いや、史実では3000人の兵で小谷城を攻め落としたはず。
対する浅井の城を守るのは5000人。常識として、3倍の数で攻めてやっと対等というのが城攻めのセオリー。
ここには、25分の1の200の兵しかいない。
それに、目前に立つ兵士といい、ここに集まった足軽たちは屈強な者が多いのも不安だった。農家の休閑日にパートで来たなんて雰囲気ではない。根っからの軍人訓練を受けた張り詰めた気配を漂わせる者ばかり。これは、おそらく秀吉軍のなかでも精鋭の足軽部隊だ。
「よいな、皆の者。班ごとに集まり、必ず5人組で行動せよ!」
前方から声が聞こえると、静かな興奮の波が押し寄せてきた。
「九兵衛、これはどういうことだ」
私は彼の耳元で囁いた。
「ここにいるのは精鋭部隊だ。我らは織田殿の不興をかった羽柴様についてく。つまり、あれだ、浅井に落ちのびる織田の脱走兵となる」
「では、このまま小谷城に入るのか」
「そういうことだな、うまくいけば」
「それで」
「小谷城の入り口の門から入り、そこから脇道を通り京極砦を攻める本隊が掘を登ってくるのを、
「九兵衛、これまさに決死隊じゃないか。むちゃくちゃ危険じゃないか」
「だな」
「なぜ、九兵衛は明智光秀の配下なのに、そんな危険に加担する」
「お市の方様だ」
浅井長政の妻はお市の方といい、織田信長が溺愛する美しい妹だ。
彼女には3人の娘がいる。のちの淀君、お江となる歴史的にも有名な女性たちが、今夜、落ちる予定の城内で震えている。
「まさか、お市の方救出に駆り出されたのか」
「ま、そういうことだ。光秀様の手柄としてな、内密の命だ」と、九兵衛が耳元で囁いた。
「いや、まさか、九兵衛、また単独行動じゃないのか」
「はは」と、彼は頭をかいた。
「バレたか!」
バレたかじゃないわ、この、出世の鬼が!
「ヨシをつれて来て良かったのか。子どもができたとか言っていたじゃないか」
「いや、ヨシがきかんのだ。留守番は嫌だとな。それにやや子はできてなかったようだ」
そうなのか、しかし……、それ、残念というべきか、良かったというべきか。嫌な予感しかしない。
と、その時、視線を感じた。
背筋がゾワゾワっとして背後を見るとヨシが睨んでいる。
おいおいおい。
「皆のもの、出立じゃ!」
一声のあと、足軽たちは、ざっと道を広げた。
その間を騎馬隊が進んでくる。
門近くの最前線にいたので、私は先頭から5番目の小男をしっかりと見ることができた。
男はひときわ派手な鎧に、
この兜は羽柴秀吉の印だ。
これが、秀吉か。
「アメ、あれが秀吉殿か」
オババも思わず見上げていた。
2日前、竹中半兵衛の屋敷で、バタンとふすまを開け、いきなり飛び出してきた小男。猿のような特異な容貌で小柄な体躯であったが、しかし、全身から太陽エネルギーを発しているような激しい男に思えたんだ。
今、その男が目の前を進んで行く。
が、なにか違和感を覚えた。
この時代の馬の背は低い。騎乗した男は、それほど高い位置にはいない。現代でいえば、頑丈な体躯のポニーに乗っていると想像してもらえればいい。
だから、私はよく見えた。
前を通り過ぎていくとき、私の目に秀吉の甲冑から出た右手が見えた。それは普通の5本指だったんだ。今、通り過ぎた男は4本の指と1本の親指で
もう一度、確認しようとしたとき、すでに彼は先に進んでいた。
秀吉は先天性奇形異常多指症だ。
右手の親指が1本多く6本の指があったのだ。黒いマスクで顔は確認できないが、背丈は秀吉そのものだった。
手の先天性異常のなかで多指症は最も多い、その原因は現代でもわかっていない。
多指症の子どもが生まれると余分な指は切られた。
武家ならばそれが可能だったが、しかし、秀吉は貧しい農民生まれだ。医者にかかる贅沢などできず、そのまま残すしかなかったろう。
だって、国民皆保険制度なんて、昭和にはいってからできた制度だもの。
「オババ」
「なんだ」
私はさらに声をひそめた。
「あれは秀吉じゃない」
「秀吉じゃない?」
「違う」
「間違いないのか」
「おそらく、影武者」
戦国武将は影武者を持つ。裏切りや暗殺などが多かった時代、そうした備えがあっても不思議はない。
特に今回の小谷城、秀吉は浅井に助けを求めて行く話のようだ。
が、実際には京極砦を本隊3000人が攻めるはずの、これは謀略だ。
裏切りが嘘とわかったとき、ここにいる200人の親衛隊で秀吉を守りきれるはずがない。小谷城には浅井兵5000人が待っている。
「オババ、あれは違う」
「おい、何を話している。俺らも出発だ」
「九兵衛、これはまずい」
「どうした巫女殿」
「おそらく、秀吉は、この200人を捨て駒だと考えて……」
九兵衛に口を押さえられた。
「巫女よ、今は黙っておけ。行くぞ」
「でも、トミたちにも危険が」
「みな承知でついてきたのだ」
「でも、これは」
「いいか、忘れるな。俺らの使命は別だ」
私は黙ってうなずくしかなかった。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます