第2話 秀吉の謀反! えっ?
「おお、無事だったか、アメ」と、古川九兵衛は屈託のない顔で笑った。
日焼けした彼が虎御前山砦に戻ってきたのは8月26日だった。身体全体から自信がみなぎり覇気があった。
九兵衛、27歳、なにがあった。
現代に生きる20代後半の男性は最悪の年齢だと聞いたことがある。
社会の枠組みでアップアップする彼ら。戦国時代の九兵衛は、ちょうどその年齢にいたんだけど、この時代は現代よりシンプルだ。彼らは大人の入り口で出口を探すといった余裕などないから、悩みも単純。
だからそんな彼を私は生暖かい目で見ていた。
信長、39歳、自信に溢れて帰ってきた。
朝倉義景の兵は2万。しかし、信長に一乗谷に追い詰められたとき、従う兵は10名に減っていた。ほぼ1週間で2万の兵力が10になった。
だから織田信長、圧倒的勝利とともに越前から小谷山まで戻ってきたんだ。
そんな彼を私は生暖かくない目で見ていた。
「九兵衛も無事でよかった」
「ああ、無事だとも」
「それで、褒美はもらったか」
「有難いことにな。巫女殿のおかげだ。明智殿に褒められた。わしは、一息飛びに足軽隊の組頭に出世した」
組頭とは足軽大将ともいい、それぞれ鉄砲隊、槍隊、弓矢隊のトップを務める重要な役割である。
「偉い出世だな。めでたい」
「ああ、めでたい。これでしばらく休めるわ」
「休める?」
「ああ、休める」
8月26日。歴史上では織田軍は朝倉攻めから戻り、すぐに小谷城への総攻撃を始めるはずだ。休むなど悠長な時間はなかった。
「小谷城への総攻撃は」
「巫女どの。それもまた、御宣託か」
「朝倉が滅び、浅井家は
九兵衛は頭をかいた。
「あの城は山城で守りが固いのだ。お市の方もいらっしゃるしな。朝倉の援軍がない今、城を囲み兵糧攻めを行うほうが兵も減らさずに済むという算段だよ」
そんな馬鹿な。
私の知っている歴史では、明日、羽柴秀吉が一息に城に攻め込み小谷城を落とす。それが歴史的事実なんだ。
「九兵衛、そんな暇はないぞ」
「ない?」
「羽柴秀吉はどうしている」
「羽柴秀吉? また、呼び捨てか。まあ、よいか。それに
咎人? なぜ、秀吉が咎人なんだ。
胸がざわっとして、なんだか、とても嫌な予感がしたんだ。
「秀吉が咎人とは?」
「そうだ、あのお方は、いま、
「どういうことだ」
私は驚いて、思わず九兵衛の肩をゆらした。
「どういうって、秀吉に謀反の疑いが出た」
ありえない。
「オババ!」
私は思わずオババを呼んだ。
「どうした」
「秀吉が謀反を企てた」
「謀反?」
「そう、謀反。信長に謀反で捕らえられたと」
「へ? 秀吉って、あの豊臣の秀吉だろう。歴女じゃなくても、それは違うとわかるわ」
「お前たち、いったい何の話だ」
九兵衛は私たちを見比べ、それから、目を細めた。
「オババ、歴史が変わってしまった」
「我らのせいか」
「いや、そんなはずはないが……」
朝倉義景を滅ぼした織田軍は小谷城に戻った。
私の知っている歴史では、明日、夜陰にまぎれて浅井長政の本拠地、小谷城を秀吉が3000人の手勢だけで急襲、浅井長政を自害させるのだから。
それが、正史だから。
歴史で習ったように、史実通りに動いて欲しい。
秀吉が捕えられたって、それ何?
まさか、私とオババが本来の女たちの人生を狂わせたために、秀吉が捕まった?
蝶が羽ばたきするだけで、世界の気象に変化が起きるという「バタフライ効果」の歴史版?
これはまずい、ほんとうにまずい。
27日を翌日に控えた日。
織田軍は
「どういうことだ」
九兵衛は不思議そうな表情で私を見つめている。
「どういういことって、秀吉が謀反なんてするわけが」と言ったところで、いきなり九兵衛に口を押さえられた。
彼は私の二の腕をつかむと「ちょっと、来い」と怖い顔をした。
建物の裏側に来るまで、彼は難しい顔をしていた。それから、懇願するよな表情に変わった。
「な、なによ」
「いいか、巫女殿。刀根坂の勝利のあと、信長様は機嫌が悪かった。あまりの怒りに柴田殿など額に冷や汗が浮かんでたと、明智殿の配下から聞いた。実際な、ここだけの話だがな。明智殿が止めなければ佐久間信盛殿は手打ちにあったという話だ」
「知っている」と、呟いてから、口を閉じた。
「知っている?」
「いや、弥助に聞いた」
「弥助がか。あの男、下人という立場だが、普通の下人とはちがうと聞いた」
「普通と違う?」
「ああ、お館様の信任が特別に厚いとな。巫女殿、これはな」と、彼は鼻の下を手でさすった。
「これはとは?」
「いや、いい」
「アメ」と、オババが口を挟んだ。
「話が他所にそれている、秀吉のことだろう、大事なことは」
「羽柴殿はな、浅井と組んで謀反を企んだという証が出たんだ」
「ま、まさか、その場で打ち首とか」
「いや、明智殿がまた割ってはいった。坂本城に
坂本城とは、今いる場所から琵琶湖を船で渡ったその先、京都への道筋にある。明智光秀の居城なんだ。
「明智殿は」
「京都守護代の仕事をかねて、坂本城へお戻りなった」
「じゃあ、九兵衛も戻るのか」
「ああ……、いや、そういうことにはならん。わしも出世した。まず、ここで足場固めじゃ」
誰がなんのために秀吉を陥れたのか。あるいは、本当に謀反を? いや、それはありえない。誰かに仕組まれたとしか思えなかった。
いったい誰がそんなことを?
織田の家臣団のなかで秀吉は新参だが、信長の信頼はあついはずだ。
この後は明智光秀がさらに頭角を現して、秀吉は新参者どうしのライバルとなるはずだ。ただ、明智は古参に嫌われていたが、秀吉はその頭の低さから好かれていた。
いや、どうだろうか。
人の心はわからない。
今回、信長の怒りに触れた秀吉を含めた五人。
佐久間、柴田、滝川、丹羽。彼らは、しかるべき身分の武家出身で、農民出の秀吉を内心では快く思っていなかったのじゃないか。
人の心は本当にわからない。
「では、秀吉は明智光秀とともに坂本城へ行くというのか」
「巫女殿、その名前の呼び捨てはやめろ! 何度言ってもきかんな、危なくてしょうがないぞ」
「九兵衛、そんなことじゃない。問題は、秀吉と光秀だ」
「わかった、わかった。言う通りじゃ」
「いつ出発だ」
「もう出た」
「え? もう出たって」
私は大きく息を吸った。
「わかった」
肩をすくめると、九兵衛は「ああ、疲れた、疲れた。ここんとこ、休みなしじゃった。少し休むぞ、また、後でな」と、笑った。
その汚れた背を土埃が追った。
オババは珍妙な顔で、その姿を見ていた。
「オババ、このままではまずい。私たちが戻れたとしても、パラレルワールドにハマって、現代が変わっているかもしれない」
「ああ、そうだな。しかし、どうすればいい」
「弥助を探す」
「弥助って、あの、ここまで運んでくれた下人か」
「うん」
「あの男なら、馬に餌を与えていたぞ」
「
「ああ、行く」
私は、その時、気づいた。オババが、なんかにみなぎる顔をしている。
「ちなみに、何を考えている」
「たぶん、アメと同じことだ」
「それは……、とんでもないことだよね」
「たぶん、そうだ」
「行くか」
「行くぞ、嫁よ」
「ああ、わかった、姑どの」
(つづく)
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