第21話 信長が駆けていく、私の手からこぼれていく


 黄土色の細かい土ホコリが舞うなか、多くの騎馬兵が信長の元で整列している。

 整然と訓練された男たちは汚れた鎧を着て、武具を背に結び、馬にまたがる。大将格のかたわらには槍や弓矢を持った下人が立っていた。


 疲れた様子も見せず、信長の精鋭部隊は準備に余念がない。


 で、私。本格的に馬に乗ったことがないから。


「ここで待つか」と、九兵衛が言った。

「いや、行く」

「じゃ、乗せるぞ、いいか。あぶみに右足をかけろ。いや、そりゃ、左足だ、本当に大丈夫か」


 馬が左側で左足を鐙にかけると、横一列で馬と並んでしまう。

 どうしたって、騎乗する方向ではない。

 馬と肩組んでフォークダンスかって配置だ。


「だから、右足」

「お、おう」って、右足を出そうとして、鐙の左足、ぬけねぇ〜!


 そのまま、おっととって、たたらを踏んでて。

 信長軍、真剣に敵に向かって疾走しよって、まさに、その瞬間、私、「おっとと」って言ってた。


「ともかく、両足で地面に立て!」

「いえ、あの、自分でもそのつもりで、でも、自信がないっていうか」


 と、その時、背後から声がした。


「へえ、大丈夫でさ」と、小柄な男が立っていた。


 初対面でもほっとする人間っている。ふいに現れた小男が、まさにそうだった。平凡な顔つきは人好きがして、警戒心を与えない。実際のところ、こういうタイプが一番怖かったりするのだが。


「お館様から、頼まれたもんで。ワシが隣を走るで」

「あなた、名は?」

「ワシの名? 弥助じゃ」

「弥助。そうか、弥助。私は馬が初めてだ。乗ったことがないの」


 彼は手助けがうまく、すぐに馬にまたがることができた。


「これでいいのか。でも、はじめてだ」

「あいわかった。安心せよ。落ちないよう、両足で腹をしっかり抱えておきなせぇ、そうじゃ、おとなしい牝馬だ、落ちることはねぇ」


 その時、信長の声が聞こえた。


「お主ら! 身を軽くして駆け抜けろ!」

「朝倉のぼんくらにおいつくぞ!」


 瞬時に、地鳴りのような咆哮ほうこうがした。

 集まった全員が、腹の底から声を出し信長に応えたのだ。信長は慈愛深い神のような笑みを浮かべ、そして、一瞬で能面となった。


 一声!


「駈けよ!」


 部隊が走り出した。

 九兵衛が馬を駆り、私の横では弥助が走っている。

 早い!

 少し前を信長が馬を駆る!

 誰よりも早い!

 走る!

 駆る!

 叫ぶ!


「遅れるな! 大将首を取ったもの、褒美は思うがままだ!」


 泥臭いほど、必死な信長の姿だった。

 馬で駆ける信長は、こんなにも真剣だったんだ。

 真夏のカンカン照りの太陽に向かい、死に物狂いで駆ける。


 汗が飛び散る。


 今、この瞬間を、ただ生きる。必死に生きる。

 戦いにむかって真摯に進む、その姿を目の当たりにして感動できないものがいようか。


 天下を取るため、ついてこれないものを切り捨て、ひたすら走り抜ける。

 これは文字通りの意味だった。

 昨夜は嵐の中で大嶽砦おおづくとりでを急襲したばかり、今日も丁野山砦ようのやまとりでを落として、なお、走るなんて!


 私は知っていたんだ。

 これほど必死に生きた男が、この9年後に志半ばで死ぬってことだ。


 信長よ、なぜそれほど、自分を駆り立てる!


 ああ、わかっている。

 この時しか、お前は輝けないからだ!

 だから、行け! 信長! 疾れ!

 散るまでの時間は、それほど残っていない。


 逃げる朝倉義景を追う信長軍、本隊の人数は多かったが、しかし、先頭を走る信長についていくのは彼と共に戦う精鋭部隊だけである。


 遅れをとっては名誉に関わるとばかり、勢いがちがう。前後左右を走る馬たちの騒音に私は耳を塞ぎたかった。どくどくと心臓の音がこめかみで聞こえ、いやがおうにも興奮する。


 戦闘態勢のゾーンにはいった集団は、どこか狂気がチラつく。


 先陣を切る信長から、私は徐々に遅れた。

 振り落とされそうな馬の上で、九兵衛の姿も見えない。

 私は、ただ、馬にしがみついた。


(つづく)


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