第19話 織田信長の容姿


 戦国時代、男女とも戦って生きる方法しか選べない。平和にのんびり、中庸ちゅうようにという選択肢はなかった。


 そして、私は現代に生まれた平和を、ちょっと愛おしく思ってる。

 なんでもない朝に、トーストを頬張りながら、まだ、明けきらない朝に遅刻しそうだと家族を会社や学校へ送り出す自分を愛おしく思ってしまうんだ。


 それにしても未来の知識を有する私に、九兵衛が疑問を持たないことが不思議だった。おそらく、彼には大きな謎のはずが何も聞かない、私から見ると九兵衛も大いに謎だった。

 いや、このメンヘラ女製造機、本気で巫女を信じてるのかもしれない。モテる男って、根拠のない自信を持った単純男が多いのも事実だ。


「おお! 見ろ、巫女殿。御宣託の通りか、黒煙が見える」


 九兵衛は指さした。それは丁野山砦方面からだろう、確かに黒い煙が何箇所も登っている。琵琶湖から吹く南風にのって、煙の匂いがこちらまで漂い、薪を燃やす香ばしい匂いも鼻についた。


「九兵衛!」

「ああ。戦闘があったな」


 彼はそう言ってから、ひとり言のように、「巫女どの、また、当てたな」と、笑った。


「どうする」

「どうするとは」

「織田信長に会いたい?」と、聞いた。


 九兵衛は頬をすぼめ、それから、「そうだな」と言って頭をかいた。


「何も考えとらんかった。まあ考えるのは巫女どのの仕事だ。噂じゃあ、織田信長は気難しいと聞いとる。少しでも機嫌を損ねると危ないとな」

「沸点が低いってことか」

「ふってん?」

「アハ、そうか。化学を知らないのだな」

「かかが?」


 私は吹き出した。眉を潜めた九兵衛の困った顔を見ていると楽しくなる。


「信長は怒りっぽい男か。九兵衛は、そういう大将は苦手か」

「いや、問題ない。ただ、あんたの方が問題だ。そのように偉そうな口は閉じておいた方がいい」

「わかった」

「ほんとに、わかっているのか」

「わかってるって」


 いや、自分でも不安だ。


「じゃあ、行くぞ」


 朝倉義景が越前に逃げるのは、織田信長は丁野山砦を落とした後のはずだ。21世紀に読んだ歴史書が正しければだけど。しかし、私は朝倉がすでに逃げていることを知っている。


 そして、今、丁野山砦方面から黒い煙があがっている。

 砦が見え、織田信長の旗印が風に揺れているが、逃げてくる人はいない。


 ここを守る朝倉側の僧侶は信長によって逃がされたはずだ。その様子が見えない。遅かったのか。


 砦の門には見張りがいた。

 砦からは大量の生ゴミが発生した嫌な匂いが鼻腔を刺激する。夏の暑さのせいで、戦死者の腐敗が早いのだろう。どれほど、この匂いを嗅いでも慣れることはないと私は思った。


「何者じゃ!」


 見張りが怒鳴った。


「明智十兵衛光秀が配下、古川九兵衛と申す。至急、お館様に申し上げたき儀があって参り申した」

「申せ!」


 九兵衛は首を振った。


「朝倉義景の動向を、大事なことゆえ、お館様に直接、ご報告したく!」


 見張りたちは小声で相談している。


「そこで待て!」


 しばらくして、男が走ってきた。


「来い、お館様がお会いになる」


 え?


 お館様って、それ信長のことだよね。

 配下の誰かえらい人じゃないの? 直接、本人? 聞き間違い? それとも、ほんと?


 嘘でしょ。誰か、嘘だと言って。


 もう、心臓ばくばくしてきた!

 歴女人生、ウン十年。


 リアル信長だよ。

 わかってくれる? この時の私の気持ち。


 で、何か声が聞こえてくる。うるさいハエのようにブンブン言っている。

 ええい、この感傷に浸る時間を邪魔すな。

 何人たりとも邪魔させんぞ。


「マチ、マチ、おい、マチ」


 外野、うっせい!


「アメ!」

「な、なに九兵衛」

「ここで待つか」


 お、お、おまん、いま、なんと言うた!

 お前は敵か!

 歴女の敵か、なんかの回し者か!


「行く」と、ドスの効いた声で九兵衛をにらんだ。

 彼はふっと笑って「ああ、そうか。じゃ、行くか」


 私は頬を両手でパンっと叩いてから「うん」と、言った。


 前後を二人の兵に囲まれ、私たちは砦内に入った。昼近く、太陽からの紫外線は激しく、すでに前夜の雨は乾きはじめていた。しかし、まだ所々に水たまりが残り、そこに赤い液体が、これは血?


 考えるのはやめておこう。戦国時代なんだから。中庭に入るところで、小姓が近づいてきた。


「お腰のものを」


 九兵衛が槍と刀を渡すと、その少年はこちらを見た。

 私も持っている武器を手渡した。


「では、こちらに」


 物々しい警戒だと思った。数名の護衛が厳しい目でチェックしている。彼らは言葉を発しない。

 小姓に導かれ、中庭に入った。


「お館様! 連れて参りました」と、小姓が言った。


 九兵衛が膝をつき、目を伏せている。

 後ろに続いた私もあわてて膝をついたが、でも、


 信長がいる!


 好奇心を抑えられず、私は九兵衛の背中から顔をのぞかせた。


 チッ!


 ちょうど太陽が彼の背後にあり、逆光になっていた。

 おい、太陽、邪魔しないで。


 信長は井戸の近くにいて、おそらく、水を浴びて血と汗を流していたのだ。

 半裸の姿で細身だが筋肉質の鍛えぬかれた肉体が見える。

 彼は髪の水を払うと、こちらに向かって来た。


 来る、信長が、こっちに来る!

 顔は逆光で、館の影にはいると、はじめて輪郭が見えた。


(つづく)

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