第12話 嵐の夜、戦国人はいたって呑気だ
天正元年(1573年)8月12日。
近江地方、現在の琵琶湖周辺を暴風雨が襲った。
ヒューヒューと不気味に唸る風……。
ガタガタと建物自体が揺れる兵屯所。
人々は建物にこもり、嵐の到来を告げる不気味な音をやり過ごすため、歯をくいしばって、くいしばって……、
へ?
へえ?
へぇえええ…?
誰も気にしてないし!
閉じた板戸がバタバタなり、雨粒さえ降り込んでくるけど、皆、のんびり寝てる。ゴロ寝してる。
薄暗くなってから、さらに風雨の勢いが増したけど、怖くないの?
これが現代なら、至れり尽くせりなんだからね。みんな、むちゃくちゃ怖がっているからね。
だってね、21世紀なら、テレビからネットニュースまで台風が到来したら、それこそ情報であふれるから。
台風が、どっかの遠い南の海で生まれた瞬間に、すでに何日に日本近辺に到着するって予想してくれる。
ヘクトパスカル教えてくれる。
避難場所も提供されて、日本に住む人は戦国時代の貴族や大名よりも手厚く保護されるぞ。
それがどうだ。
風が強くなってきてるけど、なんのアナウンスもない。
で、誰もが寝てる。
平和にすーすー寝息を立ててる。
いや、確かに生活は厳しい。なんでもかんでも自分たちで用意しなければならないし、衣服だって買える人はほとんどいないから。買う場所も少ないし、というか、商品の流通が整えられてないんだ。
関所が多く、その国を治める輩が勝手気ままに租税をとる。そんな悪代官ばかりで商品が流通できないから。
「越後屋、ウヒッ」って声、聞こえてきそう。
だから、庶民は自分で麻や綿花をしごいて糸をつくり、織り機で仕立ててと、現代人なら丁寧な暮らしって言われそう。もうね究極の手作りだから、手作り感、半端ない!
余暇を楽しむなんてないから、そりゃ、なにもできない夜は寝るしかない。娯楽もないし、生活で疲れ切ってるもの。現代人は便利な世の中で、時間という贅沢を得たんだって、ものすごく思った。
「九兵衛、ちょっと」と、兵屯所で寝ていた彼を呼んだ。
外は厚い雷雲のせいで薄暗い。
「なんだ、アメ」
「いくよ」と、彼の耳元で囁いた。
怪訝な顔つきで九兵衛は私を見て、それから何も言わずに装備を整えた。
兵屯所の板戸は湿り気を帯びて開けにくい。普段より重い戸をガタガタと音を立てて強引に開いた。同時に、突風が部屋に走りこむ。
「誰だ! 扉を開けんなや!!」
しゃがれた怒鳴り声がしたが、それだけで他にない。
室内の灯りはないので、叫んだ相手が誰かもわからなかった。
「おい、こんな雨のなかを行くのか」と、九兵衛が聞いた。
「行かなきゃ」
「なにがあるんだ」
「ある……、と思う。確信はないけど」
「そうか」
九兵衛の決断は早い。
雨笠を被り、槍を背負うと、「どこへ行く」と聞いた。
「
「大嶽砦? そこで、なにが起きるというのだな」
「うん、あの砦は朝倉兵の一部が守っている」
「ああ、確かに大嶽砦を攻略されると小谷城の浅井は孤立する」
私は、ひときわ声を落として、九兵衛の耳元で言った。
「そう、そうなんだ。だから、織田軍が動く」
「真か!」
「動く。信長が若いころに桶狭間で今川を破ったのは、豪雨のなかで奇襲したからだ。だから、もう一度、やる」
九兵衛が、
「なにこれ?」
「巫女殿、いろいろな事をよく知っているが、しかし、こういう普通のことを何にも知らんな。誰でも知ってるようなことを知らん。どこの姫として育ったんだ」
彼はフッと笑って、それから、腰蓑を巻きつけてくれた。
「雨が強い、笠も被っていけ」
「あ、ありがとう」
雨風をしのげる軒下で彼は目を細め、それから、「よし」と言った。
「昨日のうちに抜け道を探しておいた。ついてこい。まあ、この雨だ。見張りもいないだろうがな」
確かに、この砦の士気は低い。大方の雑兵は逃げ出す算段をひそひそ話していた。浅井家に対する帰属意識は低く、非常にドライだと感じた。
さて、大嶽砦は小谷城を見下ろす山の頂上にあり、500mほどの高さに建つ山城だ。
小谷山はハゲ山で城下町から大嶽砦まで雑草しか生えていない。普段なら隠れる木もないが、暴風雨のうえに夜だから、誰かに見咎められることはなかった。私の記憶では、信長もそのチャンスに賭けたはずだ。
九兵衛は確かな足取りで清水谷の町を抜け、山を登っていく。
その背を見ながら、私は後につづいた。
マチの身体は細く小さい。風にもっていかれそうなほどだが、しかし、私と違い鍛え抜かれている。いや、当時として、この体は鍛えたのではなく普通なんだけど。毎日の生活がジム通いよりキツイんだから。
だから、この世界を見て思う。
便利な現代人の多くは肥満を抱え、やることを見つけられずウツ病に悩む。戦国時代の庶民は肥満するほどの食料もなく、生活に追われ悩む時間もない。目の前の難事をただ乗り切るだけの日々だ。
風は、さらに強くなったが、マチの体は耐えた。
「アメ! ほんとに雨女だな」と、九兵衛が振り返って叫んだ。
返事をする気もなかった。
この先に信長がいる。
期待と恐怖で、私はこわばっていた。
「こりゃ、ひでえぞ。本降りだぞ。ほんとに来ているのか、織田軍は」
「きてる!」
「巫女殿がそこまで言うならな」
大嶽砦は陥ちる。間違いないと確信した。
「大嶽砦の方向に登っているか?」と、九兵衛に叫んだ。
「ともかく上に登る、頂点にある砦だ。上に行けばいいだろう」
「そ、そうか」
そのうち、話すことも苦痛になった。
遭難なんてことを、思わず考えた。だからといって、遭難救助隊なんて来ないことはわかっている。
戦国時代はサバイバルだ。運が悪くても、弱くても、死ぬ。
オババ、ごめん!
ふと、その言葉が心に浮かんだ。
(つづく)
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