第3話 朝倉義景はヘタレ上司で女好き


 戦国大名、朝倉義景という男はプライドが高く、みやびを愛する風流な男であった。


 この時代の名だたる武将、たとえば、身一つで大名まで成り上がった斎藤道三などから見れば、今どき、蹴鞠けまりやら和歌やら読んで、四季のうつろいを感じるなどバカにもほどがあると思っただろう。


 貴族臭プンプンの、女に弱く自分に甘かった彼。しかし、現代人のほとんどは戦国時代からみれば貴族や武家階級であって、同じ怠け者のアメとしちゃあ、気の毒だったと思う。


 世が世なら、こんな目に合う必要はなかった。それに青年期までは優秀だって、周囲も期待していたんだ。


 ともかく、将軍家とも交流が深い名門朝倉家の10代目当主であった彼は、とても残念な男でもあったのだ。 


 この残念さ加減は信長の生き様と比較すればよくわかる。


 もし彼が信長のような胆力と行動力があったならば、天下は朝倉義景がとったかもしれない。結果としては朝倉義景は落ち武者になり自害した。これから、信長の戦略と義景の残念さを書いていこうと思っているが、彼が天下を取れる好位置にいたことだけは知ってほしい。


 さて、歴史に仮定は愚かしいが……。


 足利将軍義昭が助けを求めたとき、その場で動けば上洛できたのは彼だったはずだ。しかし、彼は足利義昭をかくまった他に何もしなかった。業を煮やした義昭は織田信長を頼ることになったんだ。


 こうした残念な当主をいただいた家臣は大きな悲劇である。


 また、その意味では浅井長政もいい人であったが、朝倉義景を選んだ時点で見る目がなかったと言えよう。


 天正元年(1573年)、小谷城を守る浅井長政は、盟約を結んだ信長を裏切り朝倉側についてしまった。長政は朝倉と古くから親交があり、その縁故を切ることができない気の弱さ、未来を見通す目を持たなかったんだ。


 ようは時代の趨勢すうせいを見誤った。こうしたトップを持つ家臣も、やはり悲劇だ。

 

 さて、私とオババが琵琶湖を荷船で渡ろうなどという無謀な冒険をしていた同じ頃、足利将軍が京から追放されたという報告は浅井長政にも朝倉義景にも届いていた。


 この一報を聞き、朝倉もだが、浅井長政は更にうろたえた。


「誠か」と、彼は確認した。

「は!」

「誠に誠か」

「は! 総勢7万という大軍で二条城を取り囲んだそうで」

「7万、か」


 長政とその重臣は言葉を失った。

 いや、大丈夫だと自らを励ました。


 彼と彼の親族が住む小谷城は難攻不落の山城。山の中腹から山頂にかけて築いた砦を持ち、これを落とすのは容易ではない。


 一般的に攻城には数倍の兵がいると言われている。


 孫子曰く

『防御に徹する守備側を攻略することは容易ではなく、攻城は下策で最も避けるべき』


 この城は落ちない。そう思っても嫌な汗が背中を流れる。


「その後の信長の動きは」

「兵をとかず、休ませています」

「次は、ど……」


 織田信長が次に侵攻するのは、どこだという質問をのみ込んだ。

 南の石山本願寺か、東の武田か、あるいは……、こちらか。


「引き続き、動静を探れ」

「は!」


 こうして織田、朝倉、浅井、遠くは上杉、武田、石山本願寺、毛利より、多くの間者かんじゃが放たれた。。


 その一つ、オババと私をともなった古川九兵衛は、琵琶湖で荷船を回転させていた。


(つづく)

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