第23話 川で暴れては溺れ死ぬ
総員7万人の兵だ。
宇治川を渡ると言って、すぐに準備ができるわけではないから。
鎧や武器などの荷物は船に積み込んで、実際に川を渡ることになったのは翌々日の7月18日だった。
明け方。
最初の軍団が宇治川を渡りはじめた。馬に乗って渡るもの、歩いて渡るもの、7万人の兵は二手に分かれた。
そして、私たちは息を飲みながら、川の流れを見つめていた。
この当時、巨椋池と宇治川は繋がり、その流れは早かった。
「おトミ、泳げるか」と、オババが聞いた。
「いや、泳いだことはない。浅瀬ばかりなら、歩いて渡れるが…、流れが速い」
トミは額にしわを寄せ、不安そうに返した。
農民として生まれ、働きどうしで生きてきた30年。水泳教室などなかったろうし、まして、プールで泳ぎを練習するような時代じゃないんだ。
武家に生まれていれば、武術としての訓練を受けたかもしれない。けど、私の仲間である5人は足軽に出世したばかりの最下層の農民出、戦いの訓練もはじまったばかりだ。
「釣り好きのオジジが、川釣りは危険がともなうと言っていた」と、オババは皆を集めた。
「いいか、みな。川を歩く時は上流から下流にむかって、少し斜めに歩いたほうがいい。槍を杖にして、そしてすり足で歩いていく」
「わ、わかった」
「それから、気をつけて欲しいことがあるんだ。とくにハマとカズ」
ふたりは神妙な顔でうなづいた。
「足を取られて、水のなかで滑って転んでも、ぜったい暴れるな。いいか、じっとして水に体をまかせるんだ。わかるな」
「どうしてだ」と、トミが聞いた。
「顔さえ出ていれば、死ぬことはない。忘れるな。絶対に死なない。だから暴れるな」
オババはふたりの手を取った。
「ハマ、暴れない」
「そうだ。いい子だ。もうすぐ、私たちの番がくる、ゆっくり渡るぞ」
川の中腹では腰まで浸かり兵が進んでいる。背の低いものは胸まで浸かっていた。
ハマたちの身長では顔まで水がくるかもしれないんだ。
泳げないものが浮くことは難しい。
私はハマを見た。決死の覚悟で水面を見ている。
「怖いか」と、聞くと返事をしない。
「おい、おめえら、そこのちっこいの」と、横から声がかかった。
古川九兵衛が立っていた。
「こいつら二人が川を渡るのは無理だろう」
「ここに残すのか」と、私が聞いた。
「いや、そらあ、まずいからな。ほれ、連れて来たぞ」
彼の背後に、筋骨たくましい男たちがいた。
「てめえら、こいつらだ。渡してやれや」
「おお、嬢ちゃんたちか」と言うが早いか、いきなり2人の荒くれ者がハマとカズを肩にかついだ。
「お前も担がれていくか、なんなら、俺が担いでやるぞ」と、九兵衛が笑う。
「いえ、結構」
「そうか、その意気だ、行くぞ、生きて向こう岸につけ、いいな」
九兵衛は背後に声をかけた。
「古川足軽隊! 川向こうまで、競争じゃ。誰が一番乗りか」という声の先に、ハマとカズを担いだ男たちは、すでに水に入っていた。
「ワシじゃ!」
私も先に進もうとしたとき、オババが止めた。
「アメ、ここの勢いに飲まれるな。死ぬぞ」
「オババ」
「トミ、我らは、無事に渡ることだけ考えよう」
「ああ」
一番大柄なトミを先頭に、ヨシ、私、オババが続いた。テンは顔をみせない。おそらくどこかに潜んでいるのだろう。テンは仲間を嫌っているわけではない、ただ人と接するのが本当に面倒なのだと、私は、なんとなく気づいていた。
岸辺近くはスネのあたりだったが川底はぬるぬるして滑りやすい。徐々に水かさが上がっていくと、流れの勢いもました。
「オババ!」
「流れが早いな」
すり足で進む。
少しずつ、少しずつ、
前へ、前へと、流れに逆らう。
先をゆくトミとヨシから少し離れた。
水面が胸あたりを超えた頃だろうか、
視界から、急にヨシの姿が消えた。
と、バシャバシャと大きく波立つ。
腕を回して水面に這い上がろうと暴れているのだろう、顔が出ない。
足を取られたのか?
一瞬だけ必死の形相のヨシが水面に浮かび、また、消える。
「ヨシ! 騒ぐな!」
オババが叱咤した。
一番近くにいた私は彼女の腕を取ろうとして、そして、同様に滑ってしまった。
一瞬で口と鼻に水が流れ込む。
苦しい!
ゴボゴボと、水の底に吸い込まれた。
「慌てるな!」とオババの声がこもって聞こえる。
息をとめ目を開けた。
少し前では水泡が大きく泡立ち、ヨシが暴れている。
口元から大量の泡がでて、目はパニックになり、鬼の形相だった。
怖いのだ。
恐怖で引きつった顔は泳げないもの特有の恐怖だろう。底をみると、足が水草に絡まり、まるで人魚の腕がヨシを水に引き込もうとしているようだった。
水面に上がると、鼻がツーンとしたが叫んだ。
「ヨシの足が草に絡まれている!」
叫んだが、背後にいたはずのオババがいない。
「オババ!」
まさか、あのオババが足を取られた?
平静を保つには、120パーセントの力が必要だった。
と、前から、ゴボっという音が聞こえる。
オババが前にいて、槍の先端を上にして水面に突き立てていた。
水面が静かになった。
「トミ!」
「ああ」
オババが水に潜り、そして、二人は失神したヨシを水面にあげた。
「溺れたのか」
「いや、槍で腹を押して失神させた」
「俺に貸しな。運がよけりゃ、生き延びるだろう」
そこに九兵衛がいた。彼はヨシを肩に担ぐと、そのまま岸にむかった。
(つづく)
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