第16話 明智光秀と会った午後



 この世界では、これまで手軽に入手できた、さまざまな情報がない。


 例えば、天気予報とか、とんでもない事件とか、政府からの発表とか、有名人の結婚や浮気やら、今年のファッションとか。もうね、そんなことまで知って意味があるのっていう情報を豊富に手に入れてきたけど、ここではまるでない。


 そんな情報弱者として生きていくしかないんであって、それって、とても不自由なんだけど。

 ほんと不便極まりない生活だけど、それにも慣れ始めていた。


 慣れるというより、あまりに野蛮で教育的指導の必要な人間ばかりで、あのなってツッコミも入れたいが。感覚が麻痺したと思う。


 それで、ある梅雨の晴れ間のことだ。私たちは坂本城の二ノ丸に入ったところで、法螺貝の気の抜けた音を聞いた。


 琵琶湖から吹きつける風に逆らうように歓声が近づき、なにか予兆のようなものを感じた。


 ここ強調しておくとね、もともと予兆とか第六感とか滅多に感じない人間だから。たとえばね、第六感で今日は雨って思うと絶対に雨は降らない。で、雨はないって勘が告げたので傘をもってかないと土砂降りなんだ。


 いつも思うね。神はいないのか。


 でも、この時ばかりは、アメ、なにか神がかり的だった。

 ほんと、不思議な気持ちだった。


 動くことができず、ただ立つしかなかった。


 背後から「こっちへ来い!」という声が聞こえ、オババは従ったけど、私は動くことができなかったんだ。


 なぜって、本丸方面から数名の武士が走ってくるのを目の端に捉え、そして確信したからだ…


 明智光秀が帰ってきた!!


 彼が暮らす坂本城にいて、これまで一度も出会ったことがない。

 戦場か、信長の元にいるのか、ともかく、光秀はずっと留守で城には戻ってこなかった。


 これ、戦国時代では普通のことだったんだ。武将たちは常に単身赴任中で、ときに妻もついていくけど、大抵は長期単身赴任が普通だ。


 天正元年(1573年)、私の記憶では将軍足利義昭と織田信長の二人の有力者が光秀に惚れ込み、家臣に取り込もうと綱引きをしていた頃だと思う。

 そう、光秀って群を抜いて有能な男だ。そして、その理由ゆえに、信長の古参の家臣たちに嫌われていた。


 で、今、なにかが近づく音が聞こえた。


 砂ボコリのなかから並足で歩く二頭の馬が進み出て、その後にさらに一頭の馬が、もやのように舞う黄白色の微細な雲のなかから現れた。


 騎乗した男に、どうしようもなく私は惹きつけられた。

 明智光秀が数名の従者のあとから進んでくる。


 彼は周囲を睥睨へいげいするような鋭い眼付きで、印象的な容貌だった。

 がっちりとした体躯。

 四角い顔は神経質であるけど優しさをたたえ、そして、とても疲れて見えた。


 馬が近づくにつれ、背後から声がしたけど、私の時間はフリーズした。

 馬上の男はゆっくりと近づき、馬の手綱を引いた。

 男と目があった。


「女」と、彼は低い疲れた声で言った。

「なにを泣いている」


 泣いてる?


 頬に手を当てると、涙が伝っている。

 私は泣いているのか?


 その瞬間、背後から誰かに引きずられ、私は強引に平伏させられた。

 軍勢が去っていく音がした。


(つづく)

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