第8話 戦国時代のブラック企業


 首筋に触れているの……、


 短刀?

 いや、違うと言って、誰か、言って! 短刀じゃないよね。きっと違うよね。足がガクガク震えて崩れ落ちそうだから。


「やめなさい!」


 オババが腹の底からの声で怒鳴った。

 オババの声は迫力ある。たとえ、戦国庶民カネの身体だろうが、気迫は変わらない。2020年なら大抵の人がビビる。


 でもテンは違ったんだ。なにも動じない。遠くで虫が鳴いたくらいにしか感じてないのだろう。彼女の心臓音が背中に伝わってくるが、それは腹が立つほど余裕があって、ゆっくりした鼓動で、らぎがない。


「この子は、あなたに危害を加えない。ただ、見てただけじゃないか」

「あんたも……死にたいか」


 低い声が唸るように耳元で聞こえた。まるで、ヒョウが静かに威嚇するような感情の失せた声。ふぅっと冷たい息が首筋にかかる。サイコパスって、こういう人間じゃない?


「テン、行くぞ」


 トミの野太い声が聞こえた瞬間、短刀の感触が消えた。と、すでに、テンは先を歩いている。音がしない。彼女の周囲だけ音が消えている。


「アメ」


 膝がガクガクする。遊園地で間違って搭乗したジェットコースター。あれから降りた後みたいに膝が笑って倒れそうだった。


「大きく息を吐いて出す」

「はい」

「大丈夫か」

「ジェットコースターより怖かった」


 そう言うと、オババが笑った。


「あの時のアメ。真っ青な顔で声をかけるなって怒鳴っていたが、今は怒鳴る気力もなさそうだな」

「な、ない……、です」

「これしきの事で倒れていたら、この世界で生きてけんと思うがな」

「いえ、生き延びる」


 私は精一杯の虚勢をはった。


「こ、こうなったら……、そう、リアル明智光秀、リアル信長に会うまで生き延びてみせます!」

「おお、そのイキだ。さ、行くよ」


 私は息を整え、まだ、ガクガクする足であとに続いた。


 途中でオババが振り向いた。目に気遣いが宿っている。

 え? あのオババが、もしかして気遣っている? 心配してる? 私を? 

 こ、これは……、もしかして、姑に本気で心配される嫁という、嫁史上、稀有けうな地位を獲得したのか?


 私の心を読んだかのようにオババがニッと笑った。


「この世界も悪くない、私はこの身体が気に入っている」

「オババ」

「動きやすいし、軽い。若いとは、こんなに身体が軽かったんだな」

「それは…、私もですが、それに、私の20歳頃は低血圧に悩んでいたから、あの当時よりも軽いです。鍛えかたが違うんでしょうね」

「生活が基本、鍛える方向ということだろう。現代人は贅沢に慣れすぎた。私の若いころから比べてもそうだ。それから類推すれば、楽じゃないぞ、これから」

「確かに」

「だが、強みもある」


「知識!」


 二人で同時に言ったんだ。思わず笑みがこぼれたね。


「そう、私たちは小学校から学んできた贅沢な知識がある。この時代の人間は地球が丸いことも知らない。日本地図も知らない。きっとそれが力になるはずだ。その上にこの頑健な体」

「やってやりましょう」

「そのイキだ!」


 そうだ、私は一人じゃないんだ。私は自分が一人じゃないことにはじめて安心した。


 もう一人は姑だけど、そこは、おいとく。


(つづく)

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