第3話 夜這いする少年


 暗闇から男が、ぬっと現れた。髪はざんぱらで薄汚い。この男、いったい何者?

 卑しい顔でニヤつき、「へへへ」と、口元を歪ませている。


 ああ、これはデジャブ。わかりやすい。だって若いころ出会った痴漢と同じ目をしているんだ。通勤電車で襲われた学生時代の黒歴史。いまでもあの時の、刈り上げ頭の30歳くらいの、貧相で茶色のジャンバーを着た男には腹がたつ。私のスカートに下半身を擦り寄せニヤニヤして、こちらを上目遣いにうかがっていた。


 本音をいえばね。

 こんな経験談を話したくはなかったんだよ。痴漢にあった瞬間、首を絞めたなんて武勇伝ぶゆうでんを嘘でも書きたかった。今でも、あいつを殴ることができれば、どんなに爽快だろう。痴漢よりも自分自身に腹がたつ。


 そう、だから、この侵入者は盗賊じゃない。この掘っ建て小屋に金目の物はないだろう。


 でも、性欲方面も、そりゃないでしょう…って、まだその時は思っていた。


 いや、ないっと油断した瞬間、男が襲いかかってきたんだ。


 え? マジですか、いきなりレイプですか? なにこれ、ダメ、ムリ。奇妙な世界で、いきなりのレイプ?


 絶対にありえない!


 私は暴れようとした。でも驚いて体が動かないんだ。10代に出くわした痴漢のときと同じだ。身体が硬直した。

 と、オババが近くにあった薪で男を殴った。ボコって大きな音がして、侵入者は、ぎゃっと叫んで尻餅をついた。


「な、な、なんだよ、おマチ」

「おマチってなに!」


 ことさら大声をだしたのは抵抗しなかったことを恥じたからだ。だって、オババはしゅうとめだよ。


「あんた、おマチやろが」

「おマチ? それが私の名前か」


 まるで男の方が被害者のような声を出している。


「あんた誰?」

「何いうとん。オレや、マサだよ。坂本村のマサ。明日からいくさにでるから、今日、行くって話がついとんやなかったんか」と、再び近づいてくる。

「ついてない。絶対についてない。完壁についてない!」

「だってよ、お前んち、オヤジさんが死んで働き手もないし、だから、これから困るって。あんたの母ちゃんがウチの母ちゃんに言って、だから、おマチは年食ってるけど、よけりゃって。オレ、昔っからおマチが好きだったから、年上でもいいって」


 年食ってる? どうみても私の姿、まだ20歳そこそこだ。その上、女に老けてるって、いいか、そのおマチに代って私が成敗…、ってそういう問題か、いまは。

 オババを見ると、奇妙な表情を浮かべていた。うわ、姑の目前で犯されるって、いろんな意味でホラーだ。


「あんた名前は」と、オババが聞いた。

「でえじょうぶかい、あんたたち。マサや。さっき言うたろ。ほら、下の川向こうに住んどるマサや」

「そうか、マサか。ちょっと聞きたいことがあります」

「なんだよ、ちぇ、まだイテぇよ、コブができてら」


 マサは土間に座りこみ痛む頭を撫でたが、それ以上は何もしない。いや、悪いのは、もしかすると、こちらなのかもしれない。


「事情がわからないのだ」

「事情がわからんって、そりゃ、こっちや」

「教えて欲しい。どこに戦いにいくのだ。マサとやら、あんたは自衛隊か、中東にでも行くのか」

「またまた、訳わからんことを、じ、じえいだん? なんやそれ。いいか、オレは斎藤さまの元で戦うことになっとる」

「斉藤さまって、誰?」

「え? 斉藤さまは斉藤さまよ。明智さまのとこの、ご家老さまで、そこの雑兵になるんや」


 雑兵? 明智? 家老?


 この関西弁と名古屋弁の中間のような男の発音を聞いていると、むしょうに腹が立ってきた。いや、彼が悪いわけではないだろう。しかし、人というものは混乱すると身近なものに当たる。今、私が当たれる相手はこやつしかいない。


「冗談じゃない、あんた。もういっぺん、殴ったろうか。それから、それから」


 オババが冷たい声で聞いた。


「マサとやら、今は何年だ」

「何年? そんなこたあ、知らんで」

「知らんと」

「知らんわ」


 年代を知らない。

 しかし、先ほど、明智と言った。何年かを知らず、明智。どういうことだ。


「ここはどこか」

「ますます変やな。ここは近江の国の坂本や」


 おうみ?

 近江って、昔は滋賀県のことをそう呼んだ。

 明智、斎藤、近江、年代もわからない粗暴な男。うす暗がりで見る男は、しかし、よく見ると少年に近い。まだ10代かもしれない。

 飛びかかってきたときは、オヤジだと錯覚したが、そうではない。少年兵…、もう確信するしかない。ここは、過去の、それも戦国時代だ。まあ、たぶん、夢をみているのだ。まだ覚めない夢を。


「明智さまとは、明智光秀のことか」

「他に誰がいるんじゃい」

「まさかと思うが、織田信長は生きているのか」

「おマチよ、父親を亡くして頭がいかれたんかい」

「生きているのか」

「生きとるわ」


 私たちは顔を見合わせた。


「オババ」

「ああ」

「ところで、マサとやら、今日は帰れ!」と、オババが鼻をすすった。

「だけんど……」

「もう一回、殴られたいか」

「そ、そんな殺生な」

「殴るぞ」

「おばさん、怖過ぎや」

「いいか、マサ。悪いことは言わん、別のに夜這いをかけよ」

「おばさん」と、マサは頭をかいた。

「なんかいつもと違って、怖いな」


 マサは見るからにシュンとして、それから、一回だけ物欲しげに振り返るとでて行った。


「オババ、これは」

「ああ、とんでもないことになってる」

「ここは戦国時代です。私のすべての、歴女の誇りにかけて言えます」

「それもだが。その前に、これはどういうことだろう」

「明智光秀と織田信長って、歴女としては垂涎すいぜんの人物で」

「いま、そこか」


 戸外から虫の声が聞こえてきた。

 風の音、虫の声、カエルのなき声、ときどき遠吠えするような獣の声も……、機械音が全くない世界。

 日が暮れると誰もが眠る世界だとは読んでいた。テレビも電気もないのだから当然のことで、娯楽といえば…。

 私は慌てて粗末な戸につっかえ棒をした。別の男がきたらパニックになる。


「織田信長や明智光秀が生きてる時代として、今は何年だと思う」

「湖に浮かぶ城のシルエットが見えました。あの城が坂本城だとすれば、1573年から本能寺の変が起きて焼失する1582年の間ってところでしょうか」

「さすが歴女だな」

「あ!」

「どうした」

「夢の水城。坂本城を見ることができる!」

「だから、いま、そこか」


 そう、オババの言う通り、ここはぞっとすべきところなんだ。戦国時代でも、もっとも危険な、そして、疲弊した時代にいる。一般庶民なら食べることにも困り、疫病も多い。気を抜いたら死ぬ。死が身近すぎる恐怖の時代だ。


「ところで、お腹がすきませんか」

「カマドで湯を沸かした。日中、この部屋を漁ったらアワとか野菜が少しあって、あとは味噌と塩もみつけてある」

「カマドを使えるんですか?」

「私の子ども時代には、どの家もカマドを使ってたよ」

「さすが、オババ様。伊達に80歳近くまで生きてませんね」

「とりあえず、雑炊でも作ろう、まあ、この材料じゃ他のものは作れないが」


 (つづく)

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