第2話 ここはどこ、私は誰?

 

 オババに言われ土間にあった黒光りするツボをのぞいた。

 

 いやいやいや……


 で、もう一度、のぞいてみた。


 いやいやいや……


「おまえはアメだろう」

「そ、そうですが。あの、こ、この、この顔、私の顔」

「そういうことだ」

「その顔がアメなら、私はオババ」


 いやいやいや……


「アメよ。現実を受け入れよ。では、ネズミが支配する王国のネズミとは?」

「ミッキー」

「陸といえば!」

「ディズニーランド!」

「海と言えば!」

「ディズニシー!」


 最初に書いた通り、姑は筋金入りのディズニーオタクなんだ。この単語はディズニーオタクにとって普通の隠語。ま、まさか……


「オ、オ、オババ? もし、あなたがオババさまとしたら、わかったことがあります」

「なんじゃ」

「夢です」

「は?」

「今、私はとてつもない夢を見ているようです」

「ほほう」


 なぜって、ツボの水面にぼやけて映る顔、私じゃないんです。日焼けした若い顔。若い! そう、若いんだ。20歳前後にしか見えない。

 え? 今さら20歳に戻った?

 それ嬉しいかもって、喜んでる場合じゃないし、どうせ夢なら絶世の美女がよかったし。でも、まあ、かわいい部類の顔かも……、なんてなこと考えて脳をかきまわしてる場合じゃない。


「ぎゃ! なにするんですか」


 オババを名乗る女に、いきなり頬をつねられた。


「痛いだろう」

「痛いです」

「夢じゃない」

「痛みのある夢とか」


 オババが唇の端をあげて微笑んだ。この笑みはオババの癖。米国俳優ハリソン・フォード好きから、彼に似せてオババがよくする笑いかたなんだ。


「これが夢だとしよう、それで、どうする」

「夢で、だから、覚めりゃいいんです」

「どうやって」


 どうやって?

 あまりに現実的に感じるこの質感や周囲の状況。夢のあやふやさがない。たとえば、夢だったら、空を飛んでいたが、次の瞬間、地上にいたりするのだけど……


 とりあえず、その場でジャンプしてみた。

 足でドンドンと土間を叩くと、リアルに音がして、その音とともに土間の冷たさが足裏に伝わってくる。オババがこちらを見て首をふっている。


「何がしたいか理解できないのだが」


 声が冷たかった。ああ、この皮肉な物言い、まさにオババそのものだ。天敵、姑、オババだ。別の意味で恐ろしい。ディズニーオタクのスーパー婆なんだよ、私の姑は。


「ジャンプして見たんです」

「だから、なんのために」

「夢だったら、地中に潜るとか……、空飛ぶとか」


 オババの顔が、ことさらに皮肉にゆがんだ。


「じゃあ、ここはどこなんでしょうか……、えっと夢としてですが」

「ここは、どこという質問は違う。ここは何年かという質問が正しい」

「何年?」

「先ほど、まだ、アメが眠っている間に外の様子を見てきた。遠くに、かなり大きな湖が見えた」

「湖、日本で湖といえば、箱根の芦ノ湖とか、富士の河口湖とか、大きいといえば琵琶湖」

「湖の向こう側にある山の地形から琵琶湖のように思えるが」


 琵琶湖……って、滋賀県ってこと?

 それにしても暗い。目覚めたときも薄暗かったが、先ほどまでは外部から太陽光が射し込んでいた。その太陽も、いつのまにか沈んでいる。明かりといえば土間のカマドの火しかない。パチパチと薪がはぜている。


「照明のスイッチはどこかにあるんでしょうか」

「ない」

「ない。どんだけ田舎ですか、ここ」

「先ほど外を見たが、電信柱が1本もなかった。ないどころか、車が走る舗装道路もない。ここが琵琶湖の近くだとして、今、外に出てみれば街灯の明かりか、家の照明の光が見えるはずだ」

「なかったですか」

「ない」

「そ、そうですね。とりあえず助けを」

「まあ、そういうことだな」


 私は立ち上がった。やはり身体が軽い。

 ガタピシと音がする引き戸をあけ外へ出ると、そこには見事な満月が輝いていた。

 月明かりで暗さに慣れた目は周囲がよく見える。

 そういえば、メガネもコンタクトもないのに、はっきりと見えることに気づいた。

これ、視力が回復したってこと?

 コンタクトは0.8度に合わせていたが、今の視界は2.0以上のようだ。とんでもなく外の景色が鮮明なんだ。


 恐る恐るだが、さびれた掘っ立て小屋から歩いていくと、すぐに視界が開ける場所に到達した。立っている場所は高台に位置しているようで、そこから湖がみえる。

 オババと名乗る女が言うように月明かりが湖を照らし、キラキラと輝いている。


「きれいですね」

「そこか」

「いえ、でも、ほんとに美しい景色で。何もないし、建物もなにも。あ、ほら、あちらにお城のようなシルエットが見えますが」

「そんなことよりも気づかないか」

「何をでしょうか」

「少なくとも、琵琶湖周辺の道路には街灯があるはず・・・、しかし」

「た、確かに、なにもありません」


 月明かりで見える湖以外、周囲は漆黒。

 なにもない。文明の明かりがない。

 ふいに膝がガクガクして、その場にしゃがみこみそうになった。


「夢です」

「わかった。で、夢として、今はいつなんだ」

「いつ……、ここは、どこ」

「私は誰って言ったら、殴る」


 私は黙った。

 オババと私は、どのくらい、その場で呆然としていただろうか。


「とりあえず、戻ろう」と、オババが言った。

「そうですね、闇のなかで行動するのは、まずいですよね」


 そう、その時だ。下半身がスースーして肌寒いなと感じて、はじめて自分の服装に気づいた。

 古く汚れた着物を身につけているだけで、私はちょっと赤面した。パンツをはいてないし、下着のたぐいがない。その上に裸足だった。それで土の地面を歩いているのだ。枯れ枝を踏んで痛いはずなのに、それほど感じない。しゃがんで足の裏にふれると、鋼鉄かってほど硬い。


 足が、こうした道に慣れているんだ。

 小屋に戻って、木の扉を開けると、まだ、カマドの火は残っていた。


「ここはあったかい。さっき、気づきましたが、咲いている花が春のようです」

「季節は春だろう、そう、確かにそう思う」

「昨日は、2020年の7月5日でした」

「そうだ、初夏だったが、今は春」

「ど、どういうことでしょうか」

「わかるはずがない」


 と、その瞬間、いやな気配がした。

 夜の闇に潜む何か。普段の私は特別に嗅覚が鋭いわけではない。しかし、この瞬間、臭ったのだ。獣のようないやな匂いと、それから、つぎに激しい息遣いが聞こえていた。


「オババ」

「ああ」


 私たちはお互いに身体を寄せ、そっと、扉の方向へ視線を写した。


(つづく)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます