第2話 ここはどこ、私は誰?
女に言われ土間にあった黒光りするツボをのぞいた。
いやいやいや……。
で、もう一度、のぞいてみた。
いやいやいや……。
「おまえはアメだろう」
「そ、そうですが。あの、こ、この顔、私の顔」
「そういうことだ」
「その顔がアメなら、私はオババ」
いやいやいや……。
「現実を受け入れよ。では、優ちゃんといえば、ジュース缶の?」
「プ、プルトップ!」
ま、まさか……。
優ちゃんというのは、オババの妹の子で超過保護の天然娘。叔母の一人娘なんだ。
私が夫の親戚一同とはじめて顔合わせした緊張の日。紹介された義理イトコ優ちゃんは、ジュースのプルトップを薬指にはめて取れなくなっていた。ま、その後の大騒ぎは別の機会に。ともかく、優ちゃんといえば、プルトップが家族間の共通認識なんだよ。
「オ、オババ? もし、あなたがオババさまとしたら、わかったことがあります」
「なんじゃ」
「夢です」
「は?」
「今、私はとてつもない夢を見ているようです」
「ほほう」
なぜって、ツボの水面にぼやけて映る顔、私じゃないんです。目が大きくて可愛いい女の子で、幼さが残る日焼けした若い顔。若い! そう、若いんだ。20歳前後にしか見えない。
え? 今さら20歳に戻った?
それ嬉しいかもって、喜んでる場合じゃないし、どうせ夢なら絶世の美女がよかったし。でも、まあ、かわいい部類の顔かも……、てなこと考えて脳をかきまわしてる場合じゃない。
「ぎゃ! なにするんですか」
オババを名乗る女に、いきなり頬をつねられた。
「痛いか」
「痛いです」
「夢じゃない」
「痛みのある夢とか」
オババが唇の端をあげて微笑んだ。この笑みはオババの癖。米国俳優ハリソン・フォード好きから、彼に似せてオババがよくする笑いかたなんだ。
「これが夢だとしよう、それで、どうする」
「夢で、だから、覚めりゃいいんです」
「どうやって」
どうやって?
あまりに現実的に感じるこの質感や周囲の状況。夢のあやふやさがない。たとえば、夢だったら、空を飛んでいたが、次の瞬間、地上にいたりするのだけど……
とりあえず、その場でジャンプしてみた。
足でドンドンと土間を叩くと、リアルに音がして、その音とともに土間の冷たさが足裏に伝わってくる。オババがこちらを見て首をふっている。
「何がしたいか理解できないのだが」
声が冷たい。ああ、この皮肉な物言い、まさにオババそのものだ。天敵、姑、オババだ。別の意味で恐ろしい。
「ジャンプしてみたんです」
「だから、なんのために」
「夢だったら、地中に潜るとか……、空飛ぶとか」
オババの顔が、ことさらに皮肉にゆがんだ。
「じゃあ、ここはどこなんでしょうか……、えっと夢としてですが」
「ここは、どこという質問は違う。ここは何年かという質問が正しい」
「何年?」
「先ほど、まだ、アメが眠っている間に外の様子を見てきた。遠くに、かなり大きな湖が見えた」
「湖、日本で大きな湖といえば琵琶湖」
「湖の向こう側にある山の地形から琵琶湖のように思えるが」
琵琶湖……って、滋賀県ってこと?
それにしても暗い。目覚めたときも薄暗かったが、先ほどまでは外部から太陽光が射し込んでいた。その太陽も、いつのまにか沈んでいる。明かりといえば土間のカマドの火しかない。パチパチと薪がはぜている。
「照明のスイッチはどこかにあるんでしょうか」
「ない」
「どんだけ田舎ですか、ここ」
「先ほど外を見たが、電信柱が1本もなかった。ないどころか、車が走る舗装道路もない。ここが琵琶湖の近くだとして、今、外に出てみれば街灯の明かりか、家の照明の光が見えるはずだ」
「なかったですか」
「ない」
「そ、そうですね。とりあえず助けを」
「まあ、そういうことだな」
私は立ち上がった。やはり身体が軽い。
ガタピシと音がする引き戸をあけ外へ出ると、そこには見事な満月が輝いていた。
暗さに慣れた目には月明かりでも周囲がよく見える。
そういえば、メガネもコンタクトもないのに、はっきりと見えることに気づいた。
これ、視力が回復したってこと?
コンタクトは0.8度に合わせていたが、今の視界は2.0以上のようだ。とんでもなく外の景色が鮮明で美しい。
掘っ建て小屋のある場所は高台に位置しているようで、そこから湖がみえる。
月明かりが湖を照らし、キラキラと輝いている。
「きれいですね」
「そこか」
「いえ、でも、ほんとに美しい景色で。何もないし、建物もなにも。あ、ほら、あちらにお城のようなシルエットが見えますが」
「そんなことよりも気づかないか」
「何をでしょうか」
「少なくとも、琵琶湖周辺の道路には街灯があるはず……、しかし」
「た、確かに、なにもありません」
月明かりで見える湖以外になにもない。
文明の明かりもない。
ふいに膝がガクガクして、その場でしゃがみこみそうになった。
「夢です」
「わかった。で、夢として、今はいつなんだ」
「いつ……、ここは、どこ」
「私は誰って言ったら、殴る」
私は黙った。
どのくらい、その場で呆然としていただろうか。
「とりあえず、戻ろう」と、オババが言った。
「そうですね、闇のなかで行動するのは、まずいですよね」
そう、その時だ。下半身がスースーして肌寒いなと感じて、はじめて自分の服装に気づいた。
古く汚れた着物を身につけているだけで、私はちょっと赤面した。パンツをはいてないし、下着のたぐいがない。その上に裸足だった。それで地面を歩いているのだ。枯れ枝を踏んで痛いはずなのに、それほど感じない。しゃがんで足の裏にふれると、鋼鉄かってほど硬い。
足が、こうした道に慣れている。
小屋に戻って、木の扉を開けると、まだ、カマドの火は残っていた。
「ここはあったかい。さっき、気づきましたが、咲いている花が春のようです」
「季節は春だろう、そう、確かにそう思う」
「昨日は、2020年の7月5日でした」
「そうだ、初夏だったが、今は春」
「ど、どういうことでしょうか」
「わかるはずがない」
と、その瞬間、いやな気配がした。
夜の闇に潜む何か。普段の私は特別に嗅覚が鋭いわけではない。しかし、この瞬間、臭ったのだ。獣のような臭い、それから、激しい息遣いが聞こえてきた。
「オババ」
「ああ」
私たちはお互いに体を寄せ、そっと、扉の方向へ視線を写した。
(つづく)
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