7

 放課後の教室。授業が全て終わって、もうここに縛られる理由はなくなった。みな一様に、我先にと自由になりたがる。かくいう私もそうだ。けれど今日に限っては、望んでここに残っている。

 隣では君が机に突っ伏して眠っている。これ以上何も言う必要はないだろう。

 君は昨日から、一冊が——私からすれば気が遠くなりそうなくらい——分厚く、しかも上中下巻からなる長編小説に挑んでいた。今日の5限の間に読み切ったようで、そこから糸が切れたかのように眠ってしまった。そして6限、ホームルームを経て、今に至る。もしかすると昨日からほとんど寝ないで読んでいたのかもしれない。

 放課後には教室掃除があるのだが、私はそのすべてを引き受けた。だって、普通に掃除をするとなると机を全部後ろに引くことになるし、埃っぽくもなる。君を起こしてしまうから。

 事情を察してくれたクラスメイトたちは静かに帰ってくれた。さて、いつまでもこうしてはいられない。早速掃除を始めましょうか。

 作業としては、床を掃いてゴミを集めて塵取りへ。黒板をきれいに拭いてから黒板けしにクリーナーをかける。最後にゴミ箱のゴミ袋をゴミ捨て場にもっていき、新しいゴミ袋を取り付けておしまい。いつも面倒だと思っていたが、机を引かなければ意外と作業は少ない。

 ではまず、黒板から。

 6限目の授業の板書を端から丁寧に消していく。あ、黒板引っ搔いちゃった。キィーという音が教室に響いた。どういうわけか、私はこの音が嫌いじゃない。何となく、もう一度黒板を引っ掻いた。

 ガタン!

 後ろで音がした。何事かと振り返ってみても君が寝ているだけだ。

 もう一度引っ掻いてみる。

 ガタン!

 振り返っても、やっぱり君が寝ているだけだった。

 今度は振り返りながら黒板を引っ掻く。キィーと響いた瞬間に君は体を震わせて、大きく机を蹴り上げた。ガタン!

 ああ、なるほどね。

 すっかり楽しくなって、何度か繰り返した。しかしそれで起こしてしまっては本末転倒じゃないかって気が付いた。さっさと黒板をきれいにして、クリーナーはうるさいから隣のクラスのを借りた。

 それから窓を全開にして、埃が極力たたないように、かつ、手早く掃き掃除をする。塵取りに集めて、最後にゴミを捨てに行った。おしまい!

 ゴミ捨て場からスキップしながら教室に帰ってきた。

 さてさて、君はどんな様子かな?

 ——なんてことだ。君は嫌な汗をかきながらうなされていた。きっと黒板を引っ掻く音のせいだ。これはまずい。どうしようと焦るが何もいい案は浮かんでこない。 

 とりあえず汗拭きシートで汗を拭ってみたり、下敷きで仰いでみたりしたけれど、君の様子は一向に良くならない。苦しそうにうめいている。

 これは使いたくなかったが……仕方ない! 私が愛を囁いてあげようじゃないか!

 大好きだよ。愛してる。君がいないと生きていけない。何より君が大切だ。結婚しよう!

 君は顔を真っ赤にして苦虫を嚙み潰したような顔になった。変なうめき声はさらに大きくなった。なんでよ!

 原因を冷静に分析する。途端に恥ずかしいことをしてしまったことに気が付く。私はひとりで悶えた。その拍子に君の机を蹴ってしまって、上に置いてあった下巻を落としてしまった。それを間一髪で拾い上げる。一応傷がないか確かめる。うん、大丈夫そうだ。

 机に置く前に、それにしても分厚い本だと思って試しにページをめくってみた。最終ページの番号は694となっていた。他の2冊も分厚さは変わらない。つまり、君は700ページ弱の本を2日で3冊も読んだことになる。それなら疲れてしまうのも納得だ。

 なんだか楽しくなってペラペラと何度もページを弾いているうちに、だんだんと君の様子が安らかになっているのを感じた。

 そっか。このページをめくる音が、君を安心させたんだ。

 ……なんだか悔しい。私の愛の囁きよりも本がいいっていうのか君は!

 敗北した私は、下巻を机においてから、君の鞄からのぞいていた上巻を勝手に引っ張り出した。そして自分の席に持って帰った。

 勝負に勝つためには、まずは敵を知ることからだ。

 上巻は全638頁。下巻よりも50ページほど短かった。しかしそんなの私にとっては誤差みたいなものだ。ページ数に圧倒されていても仕方ない。とにかく読み始めることにした。 

 しばらく読んでいても全くといっていいほど内容が頭に入ってこない。私だって馬鹿なわけじゃないのに、いくら読んでもそれは「文字の羅列」で、意味がわからない。それでもあきらめず、読む手を止めなかった。

 何度もなんども同じページを反復する。たぶん、初めの10ページぐらいを5回は読んだ。そうすると少しずつ、何か見えてきた気がした。

 ゆっくりと丁寧にひとつずつ読み解いていく。いつしか「文字の羅列」は「文章」となり、そして「物語」へとなった。

 コンコン。

 突然叩かれたドアの方に振り返る。そこには見回りにきた生徒指導の先生がいて、直ちに帰るようにと注意された。時計を見ると、完全下校の時間を1時間も過ぎている。

 私は最初、先生に申し訳ないと思った。しかしだんだんと腹が立ってきた。せっかく物語の世界に入り込んでいたのに、たかが下校時間が過ぎているってだけで強制的に現実世界に引き戻されたのだ。あんな言い方しなくてもいいじゃないか。私の読書の時間を邪魔したんだから、むしろ申し訳なさそうにすべきじゃないか。信じられないほど嫌な気分になった。

 3時間ほど没頭していた計算になるが、いまだページは100頁にすら到達していない。全て読み終わるのは果たしていつになるのだろうか。普段の私だったらもう投げ出してしまっていただろう。けれど今は違う。ワクワクしていた。だってまだまだこのお話を楽しめるんだ。早く続きを読みたくって仕方ない!

 あともうちょっとだけ、せめてキリのいいところまで。そんな風に思って本を開くと、隣でクスクスと笑う声が聞こえた。私は少し苛立ちながらそちらを見た。

 机に伏せたまま、肩を震わせて笑っている君がいた。それから顔をこちらに向けて、いたずらな笑顔を見せた。

 普段の私だったら「レアだ!」っていってテンションが上がったところだが、今はなんだか決まりが悪い。不機嫌に顔を逸らした。もちろん後々になって後悔した。

 君は中巻と下巻を私に渡すと、いつの間に荷物をまとめたのか、さっさと教室を後にしてしまった。

 私は急いでそれらを鞄にしまって、君のあとを追いかけた。

 この日、初めて本当の君の気持ちに触れた気がしたんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る