笹原吉次の話
源平坊ちゃんに呼ばれてまいりました、笹原吉次、と申します。
明治の御代に、六十年も昔のお話で申し訳ありません。
これは、私が前のお店に勤めておりましたころの、まだ小僧だったときのことでございます。
私は、旦那様のお供でよく妾宅にまいりましたが、そのときは、
「今夜は御贔屓さんの碁のお相手をすることになったので、帰れない」
などと、おかみさんへの言伝を預かって先に帰されておりました。
もちろん、これが嘘であることぐらいは、私にもわかっておりましたし、おかみさんも承知されていたようにも思います。
その日は、雲のない中天に月があって、
「海釣りに行く約束ができたので、帰りは明日の夕方になる」
という言伝を預かって、いつものように帰途につきました。
途中に、稲穂が頭を垂れ始めた田んぼを右手に、鎮守の森を左に見ながら、小さな橋にかかる道があります。そこで後ろから誰か小走りに追ってくる足音が聞こえましたから、私は立ち止まって振り返りましたけれど、その辺りに人影はありません。
こういうときは、お先にどうぞと道を譲るのがいいと聞いておりましたので、橋の手前で私は道を外れて鎮守の森の入り端に身を置いて、その足音が追い抜いていくのを待っておりました。ところが、それは女の声で私の名を呼んで立ち止まります。
見ると、旦那様のお妾さんで、
「旦那様はもうそっちにお帰りにならない」
と言いました。
それはどうしてかと私が尋ねましたら、不意に流れてきた雲に隠れたのか月の光が失せて、お妾さんの姿は見えなくなりました。
狐か狸に化かされたのか、そう思ってすぐに眉に唾をつけましたところへ、今度は橋の向こうから誰かが私を呼ぶ声が聞こえます。
そちらを見ますと、また月の光が射して、橋の向こう側におかみさんが立って手招きをしています。私は急いで橋を渡りましたが、また月の光を群雲が遮った刹那に、おかみさんの姿も見えなくなってしまいました。
なんだかぞっとしてそこからはもう走りに走って帰りますと、番頭さんが迎えてくださいました。
「おかみさんは?」
私が真っ先に尋ねましたら、
「とっくにお休みだ」
と、おっしゃいました。
私はとにかく旦那様の言伝だけを伝えて、鎮守の森の橋でお妾さんに言われたことも、おかみさんに呼ばれたことも黙っていました。
旦那様は、次の日の夕方、釣果を携えておもどりになりました。
その翌日に、旦那様のお妾さんが土左衛門になってどこかの浜辺で見つかったという話が伝わってまいりましたけれど、旦那様は知らぬふうをして、以後、私が旦那様のお供をすることはなくなりました。
しばらくしておかみさんと番頭さんの姿が見えなくなって、店ではおかみさんと番頭さんが駆け落ちしたと騒ぎになりましたが、旦那様は、金を使い込んだ番頭には辞めてもらったと言って、おかみさんは病気で実家に帰したと皆に告げました。
それから一年ほどして、やはり月の明るい夜に、あの橋の袂で私はおかみさんの姿を見かけました。ただ、私が声をかけようとした、まさにそのとき、月はまた雲に隠れてしまい、その姿はもう見えなくなっておりました。
その翌日でした。旦那様が急にお亡くなりになって、しばらくするとお店は潰れてしまいました。
幸いに、私はおかみさんのご実家のお店で使ってもらうことになって、このとおり、今は源平坊ちゃんの退屈しのぎのお供を仰せつかっております。
ただ、おかみさんの姿を二度見た橋の話を、私はおかみさんに確かめることはできませんでした。
笹原吉次が深々と頭を下げるとぱらぱらと拍手が起こったが、当の富士岡屋は苦笑いを見せて、
「次は、六蔵」
と呼んで、
「余計なことは言うなよ」
釘を刺した。
六蔵、と呼ばれた中年の男は、富士岡屋に軽く頭を下げると、ぺろりと舌を出して立ち上がった。
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