藤間吾郎の話

 昔のことはいい。

 今は、巡査をしている。

 藤間吾郎と言う。

 富士岡屋の近辺を巡回している。

 時代が変わって、人が足りないから巡査にならないかと声をかけられたから、急いで住まいを探していると、猫の額ほどの庭のついた家が見つかった。

 引っ越しといってもたいした荷物もないので、夜分にも関わらず家主を訪ねた。

 出てきたのは、頭の真っ白な女だったが、年寄りには見えない。顔に皺の一つもないのが、薄気味悪かった。

 借りるに当たって、存外に家賃の安いことを尋ねたら、

「やっぱり後の喧嘩は先にしておかなくちゃいけないよね」

 と皺一つ作らず笑いながら、

「以前、若い夫婦に貸したんだけどね、この二人が駆け落ち者でね。男の実家から息子を取り返しにきて、でも男は内心、帰りたいと思っていたんだろうね。帰りたくない、女とここで暮らすのなんのと口では言いながら、結局、女を捨てていこうとしたんだよ。それでね、女が……」

 白髪の女はそこで右手に刃物を持った態で、

「ずぶっ」

 俺の腹を刺す真似をして、

「それから今度は正真正銘の若夫婦に貸したんだけど、これが半月ほどして二人並んで……」

 今度は己の喉に左手を当てて右手で後ろ首の辺りに拳を作ると、

「きゅっ」

 白目を剥いて舌を出し、

「首を吊ったんだ」

 目を見開いて笑った。

「俺には女房はいないから心配ない」

 幽霊などは気の迷いだと思っていたから、その夜のうちに引っ越して、明くる日から巡査になった。

 ところが、十日ほどして落ちついた非番の夜に、呑み過ぎたのか喉の渇きを覚えて水を飲みに寝床を出て開け放した障子の向こうを見ると、月下、庭先に立つ白い浴衣が目の端に留まった。気づかぬふりをして障子を閉めて寝床に入ってそのまま寝たふりをしていたら、いつのまにか一番鶏の声が聞こえた。

 明るくなって庭を歩き回ったが、変わったところはない。酒のせいで己の頭がどうかなっていたのだろう、ぐらいに考えてそれから忘れていたら、秋口になっってまた喉が渇いて起きて障子を開けたら、月明かりに白い浴衣の女が庭に立っているのが見えた。

 髪は真っ白だ。

 さては、家主の女の悪戯か、と思って履物をつっかけて庭に降りたときには、もうその姿はどこにもない。

 翌日、帰宅して家主を訪ねて苦情を言ったら、

「やっぱり出たかい」

 と済ました顔で言った。

「あんたでなければ誰が出るんだ」

 そう問い詰めたら、

「そうだよ。あたししか出ないよ」

 やっぱり目を見開いて言った。

「とにかく悪戯は止めてくれ」

 そう言って家に帰ったけれど、その夜、寝苦しさを覚えて目を開けたら、白い浴衣の女が馬乗りになって俺の頭を抱き込んだ。

 それを払いのけて起き上がりざま床の間に立てかけておいたサーベルを抜いたが、もうその姿はどこにもない。

 さすがに朝一番に家主を訪ねたら、若い娘が出てきて、三日前から祖母は臥せっている、と言った。

 孫娘に事情を話してもしかたがないと思っていたら、向こうからどういう用件か問うてきたので、昨夜の話をした勢いで、借りるときに聞かされた因縁話をしたら、

「捨てた男を刺したのが、うちの祖母なんですよ」

 孫娘は、白髪の女と同じように、目を見開いて笑った。

 以上だ。


 ぱらぱらと拍手が起こって、藤間吾郎は腰を下ろした。

 拍手が落ちつくの見計らって、富士岡屋は私を無視して、

「次は、吉次」

 と、私の隣に座っていた貧相な年寄りを指名した。


 

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