草葉亭志迷の話
時代が変わって文明開化の世の中となったからには、新しいことを始めようと思って親父に、
「これからは、欧米で盛んに読まれるノベルを書いていくつもりだ」
と言ったら、
「ノベルたぁ、何だ」
と聞くのはしかたない。何しろ、ノベルなんて誰も知らない。
「手っ取り早く言うと、戯作みたいなもんだ」
そう答えたら、親父は真っ赤に怒って、
「戯作だぁ? てめなんか息子でもなんでもねえ! くたばっちまえ!」
と言いやがった。
ノベルを書くときの名をどうしたものかとちょうど考えていたところだったんで、くたばっちまえ、を文字って名前にした。
それで、草場亭志迷、という。
そんな話をどこからか聞きつけたのか富士岡屋が、おれにノベルを出さないかと持ち掛けてきたんで、だったら一つ書いてやろうか、と想を練り始めたら、こんな会があるがどうか、と誘われたんで今日はまかり越した。
先ほどの噺家先生ほどの恐い噺ではないが、まあ、聞いてもらおう。
去年の夏の夕方だ。
おれは間借りの二階で新しいノベルを考えながら、ぼんやり窓から道行く人を眺めていた。和洋混交、老若男女、いろんな人が歩いているが、この人たちはどんなことを思ってどう暮らしているんだろう、と、いうことを書くのがノベルだ。
そうしていると、こもったような雷鳴が遠くに聞こえて黒い雲が空を覆ったかと見る間に、稲妻が走って雷音。盥を引っくり返したような雨が降り出したから、道行く人が皆ちりじりに駆け出した。
ああ、この景色はノベルに使えるなぁ、と思って見ていたら、そんな雨の中に立ちすくむ女に気がついた。
結い上げた髪も崩れるほどの土砂降りだ。女は手に何物も持たず、向こうを向いたまま、ただ雨の打つのに身を任せている。
さすがにこれは放ってもおけないと思って下へ降りて傘を持って出ようとすると,一段と激しくなった雨に、外は白く煙ってよく見えない。それでも裾をからげて足駄を引っかけて女のを探したけれど、どこにもいない。
翌日も、おんなじ頃合いに夕立があって、人が駆け去った後に、昨日と同じように女が雨に打たれて立っていた。
おれはすぐに階下に降りて傘を手に女のところへ走ったが、やっぱりいない。
次の日も雷とともに激しい雨が見舞って、見るとずぶ濡れの女が立っている。
今度こそ捕まえてやろうとおれは階段を駆け下りて傘も持たずに裸足で駆け出した。けれどもやっぱり女はいない。
それから、夕立が降らなくなって女を見かけることもなくなった。
十日ほど、日照りが続いて、そろそろ一雨欲しいと思っていた夜中に遠雷が聞こえて雨が屋根を叩く音が響いた。
おれは明かりを灯してノベルを書きながら、ふっと背後を見た。
すると、そこに髷を崩してずぶ濡れの女が背中を見せて立っていた。
あっと思わず声が出て、それでもすぐに下から傘を取ってきて差し掛けようとしたら、女の姿はすーっと消えた。
さすがに翌日そこを引き払って、しばらくは女の姿は見なかった。
しかし、雷とともに雨が降り始めると、おれがどこにいても女は現れた。
いや、女が俺に会いに来るときに雷が鳴って雨が降る、と言った方がいいかもしれない。
今日は朝から日本晴れだったが、おれは傘を持ってきている。
雨が降り出したら、女がおれの背後に立つかもしれないから……
傍らに置いた傘に目をやって草場亭志迷が語り終わっても、誰も拍手しなかったのは、雨音を確かめるためだった。
「いやいや、さすが」
と富士岡屋が二つ三つと手を叩いて、皆も気がついたように拍手を始めた。
草場亭志迷が腰を下ろしたところで、富士岡屋はその隣の男に、
「藤間さん」
と声をかけて、立ち上がった男を、
「この藤間さんは、かつて京都で恐れられた……」
そう紹介しかけた富士岡屋を男は制した。
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