漫遊亭圓徴の話

 噺家の漫遊亭圓徴でございます。

 御存知の方もいらっしゃるかと存じますが、師匠と手切れとなりましてから、新しい噺を創って高座にかけております。

 富士岡屋さんには、そんな噺のネタになりそうな書物を求めて通っておりまして、今夜も、新しい噺のネタを探しにまいったような次第でございます。ただ、こちらがいただくばかりというわけにはまいりません。わたくしも、怪談噺家を看板に掲げておりますので、ここは、わたくしの若い頃の、御一新の前の、旅先でのお話を一つ、皆様のお耳汚しに聞いていただきまして、お後と替わりたいと存じます。

 それへまいりましたのは、わたくしがまだ二つ目で、師匠にどさ回りに行け、と命じられたからでございました。

 ちょうど中山道を外れた山の中で、わたくしは道を踏み間違えてしまいました。宿屋はもちろん、茶店なんぞもありません。鬱蒼とした山中の、細々と続く獣道を辿っておりますうちに日も暮れて、今夜は野宿かと心細く感じておりました目の先に、ぽつりと見えました灯を頼りに辿りつきましたのが、あばら屋でございます。ほとほととその戸を叩いて一夜の宿を請いましたら、出てまいりましたのは、山姥さながらの老婆でございます。

 これはとんだところへ迷い込んだか、と思いまして、家の中を素早く見回しましたが、部屋の隅に髑髏が転がっているようなことはありません。

「どこから来た」

 問われて江戸から来たと答えると、

「まあ、上がれ」

 老婆は、存外、親切な声音で招いて、

「腹も減っておるじゃろ」

 言うと、囲炉裏にかけてあった鍋から雑炊を粗末な椀に入れて差し出します。

 わたくしが、どうしたものか手を出しかねておりましたら、

「心配はいらん。毒なんぞ入ってない」

 わたくしの心を見透かしたように老婆は片頬を歪めて言いますから、もうそれを口にするより他はありません。

 ままよと腹を決めてわたくしが箸を動かしている間、老婆は黙って囲炉裏の灰を火箸で嬲っています。

 そのうち、前屈みになっていた体を伸ばして、火箸をいきなり灰の中に突き立てます。見ると、火箸の先端を親指で握る老婆の手首のすぐ下まで灰の中にそれが突き入れられていましたから、わたくしは、思わず咳き込でしまい、慌てて腰に下げた水筒から水を喉へ流し入れて、

「ごちそうさまでした」

 と椀と箸を置きましたら、江戸の、何とかという店を知っているか、と突き刺した火箸をすっかり抜いて、老婆が問います。

「いえ。存じません」

 わたくしが答えるなり、老婆はまた深々と火箸を灰に突き立てます。

「そうか、知らんなら仕方ない」

 老婆は、ゆっくり火箸を抜いて、なら、何とかという男を知らぬか、と尋ねます。

「いえ、その男も存じま……」

 わたくしが言い終わらぬうちに、老婆はまた火箸を灰の中に深く突き刺します。突き刺して、今度はさらに力を込めて灰の底深く抉るように火箸を握った手を何度も、そして激しく回します。

「知らんなら仕方ない」

 ひとりごちた老婆は、再び火箸を抜いてすぐまた深く灰を刺します。刺して抉って、

「知らんなら仕方ない」

 抜いてまた刺す。刺しては抉る。

「知らんなら仕方ない」

 気がつくと、老婆の刺す火箸の辺りの灰が、赤く滲み始めております。

「知らんなら仕方ない」

 呪詛の言葉のようにそれが吐き出される度に、火箸は白い灰を刺して血の色に染めていきます。

 わたくしは、声を発することも、指を一本動かすことすらできず、ただ、囲炉裏の灰が、一面、血に染まっていくのを見ているより他、どうしようもありませんでした。

 何度か、風が吹き渡る音と夜鳥の叫びを聞いたように思います。

 朝日が差し込んで、老婆はやっとわたくしを見ました。

 それで、わたくしは我に戻って、そこから逃げ出しました。

 しかし、敷居に足を取られながら転び出るわたくしの耳朶に、素早く駆け寄って老婆は、

「知らんなら仕方ない」

 お後がよろしいようで……


 圓徴がすっと座ってしばらく、真闇のような静謐がその場を包み込んだ。

 誑斎がゆっくり拍手を始めて、座敷にはたちまち拍手がわき起こって感歎の声が漏れだした。

「さすがは圓徴」

 そう言って拍手をしながら富士岡屋は、次の男を指名した。

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