早矢仕茂克の話

 早矢仕茂克と申します。

 傍聴術を学んでおりまして、先ほど、河壁誑斎先生がおっしゃたとおり、ここで語られる怪談を書き留める役を、富士岡屋さんから言いつかっております。

 さて、傍聴術と申しますのは、先年、田鎖綱紀がアメリカより持ち帰った、早書きの技術です。このような場で、簡易な記号を用いて人が話すのと同時に書き留める技です。世間では、傍書き、とも申しまして、これに用いますのが、この、鉛筆です。

 墨を含ませる筆は、この傍聴術には不向きなのはもちろん、いずれはこうした鉛筆などに取って代わられるのではないかと思っています。

 ですが、古来より、長く、この国にあってさまざまな物事を書き記していた筆は、それ自身にまつわる不思議、怪異も書き記しています。

 そんな中から、今日は、黒船が訪れる前の、私の父が子供だった頃のお話をご披露したいと存じます。

 私の父は御家人の家に生まれて、そのころは組屋敷に二親と弟妹合わせて五人で暮らしていました。

 父が元服する前の年の九月。

 父の妹、当時、十歳だった妹が厠から寝間に戻ってきたときに、

「変なものがいる」

 と言ったそうです。

 おおかた寝ぼけているのであろうと思って、次に、兄である父が厠に立って見たら、手水鉢の向こうからこちらを窺っているものがある。

 月明かりに見えましたのが、丸い大きな土色の顔に、眉と離れて高さの揃わぬ両目で、その形も一方は笑っているようで、他方は泣いているように見えて、ひしゃげて低い鼻と口はほとんど一つになったような妖怪でした。

 それに気づかぬふりをして一度寝間に帰った私の父は、妹を連れて隣室で寝ている母親を起こして知らせました。

 盗人が入り込んだのかと思った母親が父親を起こしてそう言うと、父親はすぐに立って刀を手に厠に向かいました。

 しばらくして帰ってきた父親は、そのような曲者はどこにもいなかった、と不機嫌そうに言って寝てしまいました。

 翌朝、妹と二人で手水鉢の向こうを見にいったけれど、変わったことは何もありません。夜になって、また出たと言って妹が駆け戻ってきたので、今度はすぐに父親に言うと、父親は刀を引っさげて確かめにいきました。でも、そんなものは見えない、と怒って寝てしまいます。

 翌晩は、妹がついてきてくれと言うので、無理に父親も起こして三人一緒に厠に行くと、やっぱり顔の歪んだ妖怪が手水鉢の向こうからこちらを見ています。

 父親は、即座に手水鉢を跳び越えて妖怪に一刀をくれましたけれど、とたんに妖怪は歪んだ口を開けて水を父親に吹きかけました。その水の勢いにはじき飛ばされた刀の衝撃で、父親は降り立つところをしくじって足首をくじいてしまいました。

 朝になって確かめにいったら、落ちていた何かの欠片を妹が拾ったばかりで、やはり怪しいものはありません。

 昼前になって、母親が厳しい声で弟の名前を呼びました。何かと思えば、水瓶に落書きがしてあります。よく見ると、水瓶の縁が欠けている。

 五歳なって読み書きを始めた弟は、面白がってあちこちに落書きをしいていました。普段は何を書いたのか、気にもしていなかったのが、水瓶の縁が欠けているのが気になってよく見たら、その落書きの顔が、件の妖怪の顔とそっくりで、縁が欠けているのは、昨夜、父親が振り下ろした刀の痕だと知れました。

 それで、その水瓶は打ち壊して捨ててしまいましたら、もう妖怪は現れなくなりました。

 ところが、しばらくして父親が母親を離縁して弟と家を追い出す、と言い出して、どうしたことかと尋ねたら、弟は不義の子である、と父親が言います。でなければ、落書きしただけで水瓶が妖怪になるはずはない。母親は妖異のモノと不義を働いたに違いない、などと言ってききません。

 仲人が入って翻意を促しましたが、父親は母親と弟を追い出してしまいました。

 それから十日ほどして、妹と二人で私の父は母親の実家を密かに訪れたそうです。弟はちょうど手習いをしているところで、その手にあった筆が気になって、

「それはどうした筆か」

 と尋ねると、もらった筆だと言ます。

 誰にもらったのか重ねて尋ねると、ときどき組屋敷を訪れていた、青物売りの婆さんにもらったと言いました。

「その筆で水瓶に落書きをしたのか」

 尋ねられて、弟は泣きそうな顔でそうだと答えました。

 次にその婆さんが組屋敷に現れたら、筆のことを問い質すつもりが、それきり婆さんは姿を見せませんでした。

 近所に聞いて回って、その婆さんは、元は、筆を扱う店の娘だったことがわかりました。

 年が明けて、父親の再婚の話が持ち上がりました。

 相手は父親の幼なじみで、五年ほど前に嫁ぎ先から三行半をもらってていたそうで、どうやらそれから二人は逢瀬に及んでいたようでした。

 春に身内だけで祝言を挙げるということになって、その前に六歳になった弟が、父親に会いたいと言ってきました。

 もちろん、それを父親が許すはずはありません。

 祝言の夜、私の父はこっそりと弟を家の中に入れました。慌ただしい一日を終えて、誰もがほっとしている隙をついて妹と招き入れた弟は、家の者が寝静まってから父親の寝間に忍び入って、婆さんにもらった例の筆を取り出しました。

 私の父は、燭台を持って妹とそれを見ていました。

 弟は、声を出さずに夜着をめくってはだけた父親の腹に、あの水瓶にあった

妖怪の顔を描きました。

 それで半睡になったのか、寝返りを打って、

「誰だ?」

 と寝ぼけた父親の声に隣で寝ていた女も目が覚めたらしく、父親の名前を呼びながら弟を見て驚いた声を上げました。

 弟は、女には見向きもせず、

「父上」

 呼びかけて、その腹に小さな拳骨を一つくれました。

 不意をつかれて父親が何か言おうとした刹那、父親の腹の顔の口が、どろどろした黒い水を吹き出しました。

 それは、歪んだ腹の口から女の顔に吹き飛びましたから、女は悲鳴をあげて卒倒しました。

 夜が明けてすぐに、女は家を出ていきました。

 弟は、御一新のどさくさで行方が知れなくなったということです。


 そこで一度着座した早矢仕は、そうだ、と思い出したように鞄から、

「これが、その筆だそうです」

 と取り出して皆に見せた。

「どれどれ」

 興味深そうに顔を寄せてしばらくしげしげとそれを見ていた隣の男に、

「では、次は、師匠にお願いしますよ」

 富士岡屋がその男に声をかけた。

「いいネタになりそうですね」

 笑いながら、師匠と呼ばれた男は立ち上がった。 

 

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