第11話 名前




「本当にすみませんでした。余計な手間をかけさせて」


助手席に収まっている小針は恐縮しかない。

彼が謝罪の言葉を述べるのは、本日、何度目だろうか?

ハンドルを握っていた菜花は、にこっと笑みを浮かべた。


「おれは大人です。このくらいのことは、なんでもないんです」


「大人って……」


結局。

我慢できなかった。

お互いの気持ちを理解してしまったら、二人の関係は止まらない。

初めてのことだったが、自分の欲求に従って小針は菜花なばなを抱いた。

「初めてですか?」と問いたくなるくらい、菜花は慣れた手つきだったが、彼女がずっといた人だ。

性別が別なだけで、体を重ねるという行為には慣れているのだと自分を納得させた。


帰り道。

電車は終電にはなっていないが、田舎の時刻表だと、一時間に一本しか走らない。

明日も学校だし、少しでも早く帰れるようにと送ってもらうことになったのだった。

小針は、「大人です」と言い切る彼を見て不満を洩らした。


「確かに。菜花さんは大人です。でも、おれだって、来年は大学生だし、あと二年したら二十歳です。少しは菜花さんに近づけると思うんです」


「それはそうですけど。でも、おれも歳を取ります」


「ぐ」


「歳だけは追い越せないと思うんですけど……」


「そ、それはそうです」


愚問。

馬鹿らしいことを述べてしまって後悔する。

だが、菜花は優しく笑っていた。


「小針くんが背伸びしてくれる理由が聞きたいですね」


「え?」


「どうして大人になりたいんですか」


そんなの、決まっている。


「菜花さんの隣に行きたいからに決まっているじゃないですか」


「嬉しいことを言ってくれるんですね」


「……おれも県庁に入ります」


「え?」


「一緒に働きます」


「小針くん」


「それから」


小針はむんっとして言い放つ。


「敬語、禁止!」


「へ?」


信号が赤で、急ブレーキをかける。


「すみません。でも、どうして」


「敬語なんて必要なし! おれも使わないことにする!」


「小針くん……」


「小針もなし。菜花さん」


ムッとして見つめると、菜花は「ぷ」と笑った。


「なんで笑うんです?」


「だって。そう言っておいて、『菜花さん』呼ばわりじゃない」


「だって。それだけは……おれ、菜花さんの名前知らないし」


「そっか」


信号が青になり、車は動き出す。


「かおる」


「え?」


「かおるです」


「菜花、かおる……?」


「そう」


可愛い。

可愛い名前だと思う。


「小針くんは、ユウスケ。結ぶに助けるで『ユウスケ』。素敵な名前です。縁を結ぶことを助けるなんて、小針くんらしい名前だ」


「かおる、さん……」


「いいですよ。かおるで」


「かおるさんは、どんな漢字なんですか?」


「夏に宿るで『かおる』です」


「夏に宿る……」


「夏生まれです。祖父がつけました。どんな意味なのか、誰も知らない。おれが生まれてすぐ、祖父は亡くなったので、父ですら、よくわかってなくて」


「でも素敵な名前です」


「そう? 褒められるのは初めてかも」


小針は俯いてしまう。

この人といると、本当に心がドキドキして止まらない。


「あの。おれのことも名前で呼んでくれませんか?」


「ええ。わかりました。結助ゆうすけ


さっきまで味わっていた唇から、自分の名前が出る度に心臓が跳ね上がった。


「もう少しで東北大会ですね。聞きに行くことができませんけど、応援しています」


「はい」


結助ゆうすけ


「はい」


「こんなおれでいいんですか」


夏宿かおるさんだからいいんだ。おれは、あなたと出会うために失恋49連敗だったんだ」


「嬉しい言葉だけど、そんなに失恋するって、どういうことなんだろう?」


「惚れやすく振られやすい体質で……。でも!夏宿かおるさんのことは本気です。おれは、きっとその49回の恋愛を経験して、本当の愛にたどり着いたんだと思っています!」


自信満々の小針だが、そんなに失恋を繰り返すなんて、結構問題児であると宣言しているようなもので、なんだか笑ってしまう。

だって、菜花は知っている。

小針がどんなにいい人か、そして友達思いで優しい心を持っているのか。


「ふふ。本当に面白い。大好きです」


さらっと言われると、聞き流しそうになるが、本当に嬉しい言葉。

小針は拳を握りしめて、じんわりと幸せを実感した。


「やったー!」


大きな声で叫んで喜びを表す彼は微笑ましい。

小針も菜花もお互いを思いながら、暗い夜道のドライブを満喫した。

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