第4話 涙の意味



自分の人生、ツイテイナイ。

そう、うまくいくわけなんてなかったのだ。

不幸に見舞われる前みたいに、心が塞ぐ。

彼からの話を聞いていないくせに、「もうダメだ」と思ってしまう自分が情けない。

気持ちが向かないと、足取りも重い。

自転車のペダルがいつもの倍以上重く感じられるのだ。

やっとの思いで図書館に到着し、菜花と約束しているベンチへと向かった。


夏だったら、まだまだ明るい時間であるが、秋も近づいている。

昼間、明るく照らしてくれた太陽は、すっかり西の空から姿を消し、あたりは街灯のうすぼんやりとした光しか見当たらなかった。


小針が顔を出すと、ベンチに座っていた菜花はすっくと立ち上がって、礼儀正しく頭を下げる。

一緒に夕飯を食べていた彼ではない。

なんとなく、よそよそしくて、最初に出会った頃を彷彿とさせられた。


「こんばんは。お疲れ様でした」


「菜花さんこそ。お仕事お疲れ様です」


「すみません。まだ仕事が残っているのです」


「え? そうなんですか。中断させてしまったのではないですか」


「いいえ。おれがお願いして作っていただいた時間です。むしろ、ここまで足を運ばせてしまって、申し訳ありませんでした」


他人行儀。

元々、そんな人だけど、この敬語は小針にはきつい。

彼は良かれと思っているのかもしれないが、小針にしたら、彼との隔たりを感じてしまうからだ。

どこか、寄せ付けない、これ以上は入ってくるなと言われているような気がするから。

かっちりした敬語を使われると、本当に心がざわついた。


「いいえ。お忙しいんですよね」


「すみません」


菜花に促されて、小針は彼の隣に座る。

ふと目に止まった菜花の両手は膝の上で堅く握りしめられていた。


「菜花さん……? 一体何があったのですか?」


恐る恐る尋ねてみると、彼は泣きそうな顔をしていた。


「え?」


「小針くん。突然なんですけど、お別れなんです」


「え?」


耳を疑う。


「お別れって、何……?」


「本庁から異動の内示が来ました。本来なら、三月末までの予定だったんですけど、本庁で育児休暇を取得する職員が多く、人手不足になっているそうです。それで、戻るようにと。昨日、内示が出されました」


「な、そ、それって」


「はい。梅沢うめざわに帰らなくてはいけません」


梅沢市とは、あおい市から電車で一時間の距離にある都市だ。

大人だったら、「たった一時間」の距離なのかもしれないけど、小針にとったら「一時間も」だ。

それに、こんなに頻繁に彼と会うことなんて叶わない。


「菜花さん」


「すみません。小針くんには一番に伝えないとって思ってはいても、なんだか言いにくくて。だって、おれ……」


「よかったんじゃないですか」


小針はこぼれそうになる涙をグッと堪えて、真っ直ぐに前を見る。

菜花を真正面から見つめることなんてできそうにないから。


「小針、くん?」


「よかったじゃないですか。その本庁? でしたっけ?それって、会社で言ったら本社みたいなもんですよね? こんな外の会社より、本社に戻れるんだ。それって、菜花さんが必要とされているってことでしょう? 菜花さん、仕事できるし。優しいし。きっと優秀だから……」


そんなこと、言いたいんじゃないのに。

馬鹿。

やめろ。

もう一人の自分が必死に阻止しようとしているのに、口を吐いて出てくるのは嫌味な言葉ばかりだ。 


「忙しくなるんですよね。いいですよ。おれなんて。ただのしがない高校生です。気が向いたら連絡でもくださいよ。おれも時間あったら遊びに行きますし……」


可愛くない言い方。

嫌になる。

アホ小針。

自嘲気味に笑みを浮かべる。

涙なんか見せられないじゃない。

ここで、泣いてすがっても、菜花のお荷物になるだけだもの。

それに、こんな高校生なんて本気で相手なんてするはずがない。

一人で話を進めていて、はったとする。

菜花からのリアクションがないからだ。


ふと横に視線を向けると、彼は顔を赤くして泣いていた。

ポロポロと大粒の涙がいくつもこぼれ落ちる。


「な、菜花さん……」


彼は、弾かれたように両手で頬を拭った。


「ご、ごめんなさい。みっともないところを見せて」


「いや。あの……」


「いいんです。……本当にありがとうございました。どうぞ、お体ご自愛ください。そして、次の大会も突破して、全国大会に進めるようにお祈りしています」


「菜花さん」


「すみませんでした。こんなところに呼び出して。電話でも済む内容だったのに。小針くんの顔を見てちゃんとしなくちゃって思ってしまって。ご迷惑でしたね。すみません。大人のくせに。本当に身勝手で……」


小針は慌てて手を伸ばすが遅い。

菜花はすり抜けるように立ち上がると、ぺこっと頭を下げて踵を返した。


「さようなら。小針くん。ありがとうございました」


「菜花さん」


逃げ出すようにかけていく菜花を追いかけられない自分は不甲斐ない。

不甲斐ない。

不甲斐ない。

情けない。

情けない。

静寂の夜の中、一人置き去りになった小針は、じっとそこに立ち尽くすしかなかった。

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