第2話 幸せな時間


県大会は二位通過であった。

ライバル高である梅沢うめざわ高等学校に負けたのだ。

それだけが心残り。


「おい! お前らっ、腹に力入れろっ!」


今日も元気にメガホン小針の怒声が音楽室に響く。

しかし、後輩たちは苦笑いだ。


「聞いてんのかよ」


「はいはい。了解です。部長」


津守つもりは苦笑いをしていた。


「お前までっ、本気で怒るぞ」


落ち込んでいる部長も困るが、調子付いている小針も困るということだ。

ここのところ、彼のご機嫌は最高にいい。

なにせ、菜花なばなと過ごす時間がますます増えているからだ。

あれから、図書館以外でも彼と会うことができるようになった。

今日もそう。

小針は腕時計を見て、ハッとする。


「今日は終わり。終了〜」


「はあ? いきなり終了とか、訳わかんないし」


「そうですよ。これからって時なんじゃないですか?」


後輩たちの言葉なんて聞こえないかのように、彼はさっさと楽譜を閉じると、それをリュックに詰め込んだ。

そして、さっそうと音楽室から出て行った。


「じゃあ、今日もおつかれ〜」


ばちんと音を立てて閉じた扉を見つめて、取り残された部員たちはポカンとしていた。


小針は、校舎を出る。

正面玄関前は、高校創設者の銅像が掲げられ、その周囲は花壇になっていた。


その脇を通り抜けて、校門から敷地外に出る。

学校の前は、片側一車線で車の往来の激しい公道だ。

それに付随して設置されている歩道を右手に折れて、学校の敷地の沿って裏手に回っていくと、車の往来の少ない住宅街が見えてくる。

道路脇に駐車されている白い中くらいの大きさの普通車がハザードランプを点滅して止まっているのが見えた。

それを確認すると、心が躍るのが自分でもわかる。

逸る気持ちを抑えて歩いていくと、運転席の男はにっこり笑って手を振っていた。


「すみません。お待たせして」


少し開いている助手席の窓の合間から声をかけると、彼はニコニコとしたまま瞳を細めた。


「そんなことありません。来たばかりです」


小針は嬉しそうに助手席の取手を引いて、そこに乗り込んだ。


「あの、いいんですか? お仕事忙しいのに」


「いいんです。今日は水曜日。ノー残業デーです」


「ノー? ノー残業デーってなんですか」


「日本人は働きすぎなので、企業独自に、残業をしないようにしようという曜日を設定してしているのです。葱市役所は水曜日がその日に当たるようで、残業をしたくてもできないようになっています。残っていると、人事の人に怒られます」


「大人って大変なんですね。早く帰るのも、残業するのも苦労するんだ」


小針の言葉に、菜花は苦笑した。


「確かに。小針くんの言うことは正論です。本当に滑稽な話ですね。残業するのに苦労するだなんて」


彼はツボにハマったのか、いつまでも笑いながらアクセルを踏む。


「夕飯、どうするんですか」


「なに食べたい?」


『菜花さん!』と言いたいところをグッと抑えて、小針は黙り込む。

小針おれのバカっ』と自分で自分を責めると、罪悪感でいっぱいだ。


「小針くん?」


「すみません。おれ、外食なんてあんまりしないし。菜花さんはなにが食べたいんですか?」


「そうだな」と彼はハンドルを握りながら悩む。

そして、パッと表情を明るくした。


「こ」


「こ?」


もしかして、おれのこと!?

菜花さんも、おれと……。

そんな妄想をしたとき、車は信号で停車した。


「コーヒーが美味しいお店ならどこでも」


「こ、こって。コーヒーですか?」


「え?」


「い、いや。なんでも。そんなお店、おれよくわかりませんよ。菜花さんのお勧めでいいです」


「そう? カフェみたいになっちゃけど、いいですか?」


「はい」


小針の同意を聞いて、彼は嬉しそうに笑った。


「よーし! じゃあ、いつものお店にしちゃおうかな?」


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