第5話 カンタータ184



中核都市であるあおい市は、大きな図書館を抱えていた。

小針たちが通うあおい高等学校から自転車で15分程度のところにある。


図書館の周囲には大きな公園があり、市民の憩いの場として、日中は様々な人が出入りする。

敷地内には、昔からある小川も流れており、癒しスポットとしても重宝されているのだ。

鉄筋コンクリートの堂々としたモダンな造り。

老若男女。

夏休みであるせいか、学生も多く見受けられた。


外はがやがやとしているのに。

自動ドアを潜って中に入った瞬間。

耳鳴りがするような静寂に襲われる。

中は寒いくらいひんやりとしていた。


「寒い」


そう呟くと、大橋は苦笑する。


「本には湿度が大敵だもんね。冷房ぎっちりきいているみたい」


こんなに静かなのに、思ったよりも人がいる。

カウンターで貸し出しの手続きをしている人たちも、心なしかこそこそと声を潜めてのやりとりだ。

なんだか笑いたくなってしまうものだと考えていると、大橋の視線を感じてはっとした。


「変な気を起こすなよ」


なんでわかったのだろうか。

小針は少し咳払いをしてから首を横に振った。


「おれ、本を返したら、あっち見てくるから。かんとくはどうする?」


「おれも少しぶらついてみる」


「そう。じゃあ、後で」


大橋はそう言うと、返却カウンターに向かって歩いて行った。

とは言うものの、初めて訪れた場所だ。

たくさんの本棚が陳列されており、どこも同じようにしか見えない。

遥か昔に図書館の使い方を学習したことを思い出す。


「日本、日本……なんだっけな。分類方法とか習ったよな……」


そんなことを呟きながら、とりあえずあちこちの本棚を覗いてみることにする。


漫画なんて一冊もないらしい。

なぜ、日本の図書館は漫画を置かないのか。

漫画だって十分な芸術であると思うのだが……。

活字の真面目な本ばかりだな。


ところどころに配置されている椅子に座って読書をしている人もいれば、机に座って調べ物をしたり、パソコンを叩いたりしている人もいる。

こんな静かな環境でよくやっていられるなと、小針は思う。

正直、こういう場所はなんだか心がざわつく。

キーンと耳鳴りがいつもしている気がするし、なんだか息をするのも悪いようで、呼吸をすることがはばかられるのだった。


細かい本は無視。

ともかく、大型本の背表紙を眺める。

こうしてみると、活字ばかりではなく写真集や図鑑系も多いのか。


––––こういうものなら見られるかな?


ふと目についた仏像の写真集を見てみようと手を伸ばした瞬間。

ふと隣から伸びてきた白い指がその本にかかる。

指と指が触れ合いそうになった寸でのところで、小針は踏みとどまったおかげで、それは回避できたようだが、相手の男は目を瞬かせて小針を見つめていた。


変なシチュエーションだった。

大型本は基本的に、書架の下の段に並んでいる。

よって、二人はしゃがみ込み、じーっと見つめ合う姿勢なのだ。


なにか話さなくてはいけないのではないか?


そう思っているのに。


『Erwünschtes Freudenlicht, (待ち望んだ喜びの光よ)』


なぜか、バッハのカンタータ 184 番の冒頭が頭に浮かび、男声の二重唱が頭に響く。


––––やばい……。これって。もしかして……。


相手の男は、小針より年長。

ワイシャツに黒いズボン。

首からは緑の紐がぶら下がり、その先には職員証がくっついている。

ここの職員だろう。

黒い髪は跳ね上がり、短く切ってある前髪の下には、灰色がかった瞳があった。

その瞳に映った自分の顔は情けない。

色が薄い分、なんだかぼんやりとした印象を持たせる男だったが、小針の心はすっかり釘付け。


「好み……」


思わずそんな言葉が口を突いて出た。


「え?」


男はそこで初めて声を上げた。


––––やばい。心の声が漏れているではないか!


小針は首を横に振って、自制心を保とうと努力をする。

彼は手に小さい白い紙を何枚も持っており、他に数冊の本を抱えていた。

この図書館の仕組みはわからない。


––––その紙はなんだ?


そんなことに思考を巡らせていると、男が口を開いた。


「あの。この本に興味があるんですよね?」


「い、いや。興味というか……どうぞ」


両手を差し出して彼に譲ろうとするが、そこではったとする。

いや。

きっと、ここで譲ってはいけないような気がしたのだ。


「は、はい! その本。絶対、絶対、ぜったーい借りたいんです」


嘘ばっかり。

なにそれ。

バカじゃないの。

自分でも笑ってしまうくらいわざとらしい嘘。

なのに、相手の男は困った瞳の色を見せた。

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