二.

 *



 酷いことを言ってしまった。酷いことをしてしまった。これは彼の愛情の証だったのに。これは彼の優しさだったのに。でも、だって、恥ずかしかったんだ。いつまでも子供の自分を見せつけられているようで。いつまでも子供扱いされているようで――まだ無垢だった自分の片鱗が刻まれたそれを、琅果は抱き上げる。

 ずっしりとしたその重みに、今までどれだけ助けられてきたことだろう。赤い絹の衣服が、更に深い緋色に染められていく。

 あぁ、ダメだ、これを失いたくない。もっともっと、この腕にしてもらいたいことがたくさんある。この腕としたいことがたくさんある。こうなるって分かってたら、あんなこと言わなかったのに。こんなことになるって分かってたら、もっと素直に「ありがとう」と言ったのに。恥ずかしかった。嫌だった。でも、それでも嬉しかった。これがあったから信じて帰って来れたのに。

 でもこれがあったからこんなことになってしまったのかもしれない。自分がここに戻ってこなければ、こんなことにならなかったのに。


 眼前で起きた出来事を受け入れることができず、琅果は呆然と立ち尽くした。抱きしめる腕に、自然と力が入る。放出される霊気に反応して険しい絵柄へと替わる細工を施されていたその刺青は今、幼き頃の琅果が描いた無垢な絵柄のままだった。



 *



 その瞬間、レイはなりふり構わず飛び出した。

(嘘だろ、嘘だろ……こんないきなり……!)

 必死に大地を蹴り上げながら――彼と同じように――自らの胸元に爪を立てた。未だ直らぬ胸元の裂傷が、今となってはとても有難い。これでほんの僅かでも早く、取り出すことができる。

「間に合え、間に合え、間に合ってくれ……頼むから……!」

「レイさん、颱良さんが……!」

「分かってる、分かってるから……!」

 言いながら、レイは自らの心の臓をその胸から抉り出す。大量の血を噴出させながら、そんなことはお構いなしにそれを颱良の胸元へと押し込んだ。

「レイさん、な、何を……」

「まだ、間に合うはずだ……まだ、大丈夫……肺は動いてる、だから、これが上手くはい、れば……」

 苦しげに息を荒らげながら――当然だ、体に空気を送る機能を失っているのだから――、レイは必死に颱良の胸元を抑える。口からも鼻からも大量の血を吐き出し、流しながら、決してその手を放そうとしない。

 吹き出す血の洗礼を受けながらも、棠鵺はレイの手元を覗き込む。レイの心臓だったものと、颱良の体が、早くも癒着し始めていた。

「とう、や……ろ、かに……うで、持ってこさせろ……」

「は、はい……!」

 言われて棠鵺は飛び出す。琅果の下に行くと同時に、茫然とする彼女の体ごと、ほとんど引き摺るようにして連れてきた。

「たい、ら……? れいにい……?」

「わ、るい……少し、寝る……また、起きる、から……、あとは頼ん……」

「琅果! その腕を早くこっちに!」

「は、はい!」

 言われて琅果は愛しいその腕を棠鵺に渡した。棠鵺は自身の衣服を引きちぎり、その中から一本糸を取り出すと、玄冬扇で一部を凍らせ、針のように尖らせる。そして、その糸で颱良の腕を在るべき場所へと縫い付ける。

 それからそう時間のかからないうちに、颱良の腕は繋がり始めた。しかし、胸元の傷がいつまで経っても塞がらない。

「とうやくん……棠鵺くん! 颱良、颱良が……」

「分かってるよ、琅果」

 大量の血の海の中でぐったりと眠っている――もはや死んでいるようにしか見えないが、やった本人がまた起きる・・・・・と言っているのだから、今はそれを信じるよりない――レイを見て、棠鵺も覚悟を決める。レイは自分にできることを全てやってくれた。次は自分が頑張る番だ。

 棠鵺は塞がらない颱良の胸元の傷と、その中で大きく脈動する心臓を見て、次に玄冬扇を見た。そう、これは前に一度やっている。あの時はレイという神族だから大丈夫だっただけかもしれない。しかし、命を奪う危険があるからと言って何もしなければ、それでもきっと彼は死んでしまう。だったら、何もしないで後悔するより、ちゃんとやって後悔した方が良い。

 きっと大丈夫だ――と、棠鵺は自分に言い聞かせる。何せ、ここに入っているのはあのレイの心臓なのだから。きっと、きっと持ち堪えてくれる。

 大きく深呼吸をし、玄冬扇を構える。もはや誰に祈っているのかすらも分からない。しかし、それでも棠鵺は心の中で祈りを捧げながら、静かにその扇を薙いだ。ひらひらと舞い落ちる雪が颱良の胸元に着いた直後、傷口が凍り付いた。胸元にそっと耳を当ててみる。とくん、とくんと微弱ながら一定の感覚で鳴り響く鼓動を確認できた。まずは一安心だ。棠鵺は、琅果に「今できることは、全部やったよ」と微笑みかけた。「うん」と震える声で言いながら、琅果は袖口で涙を拭った。



 *



 戦場は正に地獄と化していた。霊獣と化した月宮は、颱良の意思を継いで決してその敵を逃がそうとはしない。霊力による攻撃はほぼ無効だった妖精だが、不思議と霊獣による攻撃はダメージが大きいらしい。その理屈は分からないが、かつてそのように封印したという実績があるのだから、やはりそれはそういうことなのだと受け止めるしかない。

 月宮が妖精を引き付けてくれている間に、棕滋らもまたレイの応急処置の効果が出てきた。傷は消え、体力もほとんど戻っている。しかし、気力が追い付かない。


 颱良が死んだ――かもしれないというその事実に、思考が完全に停止してしまう。


 棕滋の中に、颱良と交わした言葉が次々に蘇ってくる。なぜ、ここで? そう思わずにはいられないが、寧ろ、今、ここだからこそ――だ。

 この数ヶ月の間、彼が琅果に向けて言っていたことは、全て彼自身に向けられていたのだと気付く。彼は、こうなることをあの日、あの時から受け入れ始めていたのだ。

 あれも、これも、それも――何もかも知らないままでいれば良かったという後悔が、次から次に浮かんでは沈む。しかし、その後悔に支配されて何もできないのでは、それこそ彼のしたことを全て無に帰してしまうのではないか。棕滋は拳を握り、立ち上がった。


「あれを、必ず封印しましょう」


 棕滋のその言葉に、三人の顔にも僅かばかり生気が戻る。あぁ、そうだ。彼の命を無駄にしてはいけない。


 どうせアレに霊気は効かない。ならば、こちらからは一切攻撃をせず、あくまでも月宮の援護に徹するよう各々意識する。

 月宮は妖精の腕を噛みちぎり、喉元に食い下がり、胴体を踏みつける。それでもなお動き回る妖精の生命力にもはや呆れるしかないが、そこで気を緩めたりはしない。月宮の傷を癒し、霊力で彼の肉体強化を図り、あらゆる手段で援護という援護を続けた。

 月宮に完全に上位を取られ、妖精は暴れ続ける。完全に引きちぎれた脚と、皮一枚で繋がっている腕。月宮を見上げ、必死にまだ完全に繋がっている方の腕を伸ばし、そしてその中でも呪いのような言葉を紡ぎ続けた。

「欲しい、欲シイ、にコ、二個あル、あたしも、ホしい!」

 伸ばされたその腕に小さな足がのしかかった。

「あんたにあげるものは何もないよ」

 両の目の瞳孔を完全に開き、一切の慈悲を許さない声で、琅果は言い捨てる。

「ごめんね、また眠っててね。おやすみ」

 それは棠鵺の声だ。棠鵺は妖精にコツンと白秋扇を触れさせる。途端に妖精は静かになった。

 正気と狂気を司る扇――彼女が狂気に生きる者であるのなら、おそらく正気に戻すことができるのではないかと踏んでのことだったが、どうやら成功したらしい。


「棠鵺くん、こいつにそんな優しい言葉なんてかけなくても!」

「でも、産まれた瞬間からずっと独りぼっちって、やっぱり、寂しいと思うから……」

 その言葉にいやに実感が籠っているのを感じて、琅果は押し黙った。そこに棕滋や爛瀬、椋杜、雪晃も歩み寄る。

「終わった、んですね……」

「はい、一応は」

 未だに月宮に踏みつけられたままの妖精は、産まれたばかりのどこか蠱惑的で美しい姿とは遠くかけ離れた、肉塊のようなものに成り果てていた。

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