五.
颱良は走っていた。本当なら今すぐにあそこに戻って
これだけの騒ぎがあるにも関わらず、衛兵も官僚も一切その姿を表さない。それもそのはずだ。この桃李京に住むほとんと全ての者は、最初の不協和音によって意識を失うか、我を忘れるかでそれどころではない。途中途中、苦しみ悶えのたうち回る者や、痙攣を起こして倒れる者、また狂気に曝されて暴れる者などを見るが、それもやはり今はどうしようもない。
なぜ自分は大丈夫なのだろうかという疑問はあるが、問題ないのならそれに越したことはない。どうせ考えても分からないのだから、今は考えることを放棄して、颱良はひたすらに走る。
あと数ベイトで皆の下に着くと思ったその矢先、四度目の不協和音が鳴り響く。
この嘔は、回数を重ねるごとにその威力を増しているようだった。最初は意味もない叫びでしかなかったその音に、次第に意味が宿り始める。言葉として認識されないそれは、しかし無意識のうちに脳がその言葉を拾ってしまうらしい。不安や恐怖、怒りや嘆き、哀しみを呼び起こし、過去の嫌な記憶が次々に掘り返される。
棕滋が言っていた「呪いを吐き出す」とはこういうことか、と颱良は歯を食いしばる。
どうか皆、無事でいてくれと、祈りに近い願いを唱えた颱良の目に入って来たものは――……
瞬間、颱良は全力でそれに殴り掛かる。凄まじい轟音と共に、大地が砕ける。めくれ上がる石畳と砂塵。その奥で、間一髪避けたのであろう異形――すなわち妖精が、そのヒトならざる艶めかしき顔に、薄い笑みを浮かべていた。
「遅れて悪かった……」
込み上げてくる怒りを抑えて、颱良は低い声で唸るようにそう言うと、腕を有り得ない方向に捻じ曲げられ、血を吐きながら倒れる椋杜の体を起こした。
「あぁ……遅れ、過ぎだ……」
かつての麗しい美声はそこにはなく、掠れた声でそう言う椋杜は、しかしそこに確かに安堵の念を込めた。まだ助かってはいない。しかし希望はまだある――と。
「颱良!」
後ろから、琅果の声が聞こえた。
「琅果、まだ無事だな」
「あたしは、大丈夫……」
そう告げる琅果の視線は周囲を泳ぐ。皆まで言わずとも分かっている。棕滋も、爛瀬も、雪晃も、既に動ける状態ではない。もう少し早く来ていれば――と思わざるを得ないが、今は寧ろ間に合ってよかったと考えるべきだ。
細い肢体をしなやかにくねらせる妖精から目を逸らさぬよう注意しつつ、颱良は琅果に現状を聞く。
「タカさんは、あれを妖精って言ってた」
「あぁ、分かる……」
「異常に成長が早くてどんどん力が強くなる。それに、戦いながら学習してるんだと思う」
「……霊力を使えば使うほど、吸収する……?」
「そういう感じも、ある、かも」
「そうか」
それは厄介な敵だと、颱良は改めて妖精を見据えた。ということは霊力に頼ることなく地力のみで決着を付けなければならない。しかし相手にその
「そりゃ、流石にずる過ぎるだろ……」
思わず失笑してしまう。精霊界は今までなんてものを飼っていたのかと。こんなものを何千年も有難がっていたのかと。それでは
相手が身構えるのを見て、颱良もまた臨戦態勢に入る。颱良には目もくれずに琅果へと飛び掛かろうとするそれの進路を妨害し、その爪を腕で受け止める。霊力の吸収がどこから行われるか分からない現状、防御にすらあまり使うべきではないのだろう。普段ならば絶対に傷の付かないその屈強な体に、深い裂傷が刻まれた。
「颱良、あたしも……!」
「来るな!!」
そう言って応戦しようとする琅果ではあったが、彼女とて既に体中の至るところが不自然に腫れたり、捻じれたりしている。それに、琅果の力の強さはそのほとんどが霊力によるものだ。地力も他の者に比べればありはするが、この状況を覆せるだけのものを持っているとは思えない。守らなければいけないものが増えるのは、この状況では寧ろ不利。颱良は強く叱責し、琅果に退がるように命じる。
妖精は颱良を見ない。その瞳は常に琅果に向き、彼女だけを狙っている。とにかく琅果とコイツの間から退くわけにはいかない。さてどうしたものか――と、頭を抱えたその時、どこからか、蹄の音が聞こえてきた。
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