五.
***
賑やかを通り越して、もはや喧しいとすら言えるような鳥の鳴き声に、琅果はむくりとその体を起こした。久々にとてもよく眠れた気がすると思いながら、昨日は何をしていたのかを考える。あまり記憶がない。あぁ、そうだ、精霊界に戻って来たんだと思い出し、周囲を見渡し、自分が今、呪いの屋敷に居るのだということを確認する。
そもそも寝た時の記憶が曖昧なのだが、体はこうして無事だし、どこか知らない場所で目が覚めたわけでもなし。さして気にする必要もないかと、寝てる間に凝り固まった体を解す。
そういえば、棠鵺とレイはどうしただろうかと思って周囲を見てみるも、二人の影はどこにも見当たらない。不思議に思って立ち上がり、隣の部屋――のようなもの――を見れば、レイの巨体が転がっているのが見えた。あぁ、気を遣ってくれたんだなと思いつつ、未だ見えない棠鵺の姿を探す。
妖族にとって精霊界は敵地と言っても過言ではない。彼がおいそれとここから出て行くことは考えにくいのだが、それにしたって心配は心配だ。とにかく探しに行ってみようと、玄関跡から一歩を踏み出したところで、動物たちにご飯を与えている棠鵺の姿が見えた。
ここに居るのはそのほとんどが大型の肉食獣だ。にも拘わらず、わずか一日足らずでここまで彼らと打ち解けてしまえるのはすごいなと、琅果は動物たちとじゃれ合う棠鵺を見て素直に尊敬の念を抱く。と、同時に「でもあたしだって植物と仲良しだし、美味しい木の実の見分け方知ってるし!」とよく分からない対抗意識が芽生える。いや、こういうものは比べるものではないのだ――と自身に言い聞かせつつ、「よし」と両の頬を叩き、一日を始める一歩を軽やかに踏み出した。
「棠鵺くーん!」
よく聞き慣れた、鈴を転がしたようなその声に呼ばれ、棠鵺は勢いよく振り向く――が、完全にそちらを見る前に、腰のあたりにドン、と軽い衝撃が来る。
「おはよう」
腰に抱き着きながら、琅果はその大きな瞳で棠鵺を見上げる。棠鵺はどう反応すれば良いか分からずに、少々顔を赤くしながら、「お、おはよう、琅果」と小さな声で返した。
「琅果、もう大丈夫?」
とりあえず腰からは離れてもらい、動物たちにも小屋に戻ってもらい、やっと落ち着いたところで琅果にそう問いかける。
「大丈夫って、何が?」
きょとんと素知らぬ風に瞬きをする琅果を見て、棠鵺は懸念が杞憂に終わったことにほっと胸を撫で下ろした。
「ううん。昨日は疲れてたみたいで急に寝ちゃったから」
嘘を吐くことに少々の罪悪感を覚えつつ、無駄なことは言わない方が良いだろうと無難に告げておく。琅果はその言葉を一切疑うことなく「あ、ごめんねー!」と笑っている。
「大丈夫なら良いんだよ。それはともかく、今から朝ごはん作ろうと思うんだけど……」
「あ、あたしも手伝うよ!」
言いながら腕を捲り、やる気満々な琅果に、棠鵺は「ありがとう」と微笑んだ。
「えぇー!? 昨日の夜、タカさん来てたの?」
共に作った朝食を頬張りながら、「起こしてくれれば良かったのにー」と不服そうに唇を尖らせる。
「起こそうと思ったけど、よく寝てたから。棕滋さんも起こさなくて良いって言ってくれてたし」
流石にそのまま伝えるわけにはいかず、嘘にならない程度のことを適当に言っておく。
「そっかぁ。でもまぁ、多分今日あたりまた来るだろうし、その時に色々話せば良いよね」
「うん、そう思うよ」
朝食と言ってもそうそう凝ったものを作ることはできず、結局できたのは、この屋敷内に居る鳥が産んだ卵に颱良が置いて行ってくれた
未だ眠ったままのレイを横目に見つつ、きっと彼の分はなくなってしまうことを確信し、棠鵺は胸の内でそっと謝罪の言葉を述べた。もっとも、本人曰く食べる必要のない体ではあるらしいから、そこまで気にしないのかもしれないが。それでも自分のご飯を美味しいと言ってくれたのは嬉しかったなと思い出しながら、また今度ちゃんとしたものを作ってあげようと、一人決意するのだった。
実際のところ、昼の間は特にすることがない。ここから出て行けない以上、情報収集などをすることも叶わず、二人――と昼になってもまだ寝ている一人――は他愛もない会話をしつつ、たまに動物たちと遊びつつ、ひたすら颱良が戻ってくることを待った。琅果としては今すぐにでも千年桜の下に行きたい気持ちでいっぱいなのだろうが、その点については棕滋がきちんと手筈を整えてくれるとのことで、やはりこれも待ちの一手を打つしかない。
「そういえばさー」
狼に芸を教えながら、琅果はふと思い出したように話し出す。
「昨日の夜、この狼くんはなんで……」
そこまで言って、琅果の動きが止まった。棠鵺は瞬間的に「まずい」と感じて「琅果!」と名前を呼んだが反応はない。レイが眠っているこの状態で、また琅果が暴走をしてしまったらどうしたら良いのだろうか? ――そんな懸念を抱きつつも、琅果の次の行動を見守るより他、棠鵺にできることはなかった。
しかし、結局はそれも杞憂に終わる。琅果は「あぁ、そっか」と言った後に「ごめんね」とどこか寂しそうに微笑んだ。
「あたし、昨日ほんっと馬鹿なことしちゃったね。棠鵺くん、びっくりだったよね」
「それは、その……うん……」
ここで「そんなことないよ」と言うのは簡単だったが、それを言うべきではない気がした。棠鵺はおずおずと琅果の言葉を肯定する。
「嫌いになっちゃった?」
問いかける彼女の顔には、やはり困ったような微笑みが浮かんでいる。
「嫌いになんて、ならないよ」
「ほんとに?」
「本当に」
「えへへ、ありがとう。嘘でも嬉しい」
言いながら、琅果は勢いよく立ち上がる。膝についた土を払って、目の前の狼に「お座り!」と大きな声で指示を出す。狼は驚いて跳ね上がった後、棠鵺の後ろに隠れた。
「嘘じゃないよ。嫌いだったら、一緒にご飯作ったり、食べたり、そういうこと、できないから……」
独り言のようにそう呟きながら、棠鵺は狼の長い毛を梳いた。
「そうそう、あのね、何を言おうとしたかって言うとね、何でこの狼は昨日飛び出して行っちゃったのかなって」
「そういえば……」
言われてみれば確かに不思議だった。ここの動物たちは、意思の疎通が難しいなりに、それでも颱良ときちんと心を通わせているように思う。特に狼――犬科の動物などは、先導者と認めた者の命令には絶対忠実だ。獅子や虎などが悪戯で出て行ったならまだ分かるが、昨日は彼らよりもこちらの狼の方が興奮していた。その直前に何があったのか、棠鵺は考える。
「白秋扇……」
「ん? なぁに?」
「琅果、あの時さ、白秋扇を開いたよね?」
「えっと、うん、ごめんなさい」
「いや、謝らなくて良いんだけど。もしかしてそれが原因かな」
「狼くん?」
「そう」
あの時、この狼がどのようなことを考えていたか、それを言語化するのは難しい。それほどまでに彼は興奮していたのだ。しかし、映像として伝わってきたのは輝く白金の円状のものだった。過去に、犬や狼は満月を見て吠える習性があるという話を誰かから聞いた。いや、恐らくは
「十二様……」
そう、恐らくは彼女から聞いた――と思い至ったところで、ふと
「ねぇ、琅果」
「はい!」
琅果はその罪悪感からか、とても畏まった姿勢で返事をする。
「琅果はさ、前に青春扇を盗もうとした、んだよね……?」
「は、はい、そうです……ごめんなさい……」
「いや、怒ってないから良いんだよ。良いんだけど、その時、十二様に会った?」
「十二様……黒髪の、山の女神様?」
「そう」
「会ったよ! もうすっごく怒られちゃって」
「その時、十二様は台座か何かにぶつかって、何かを落としたりしなかった……?」
「え? え~っと……した、かも……?」
「十二様は最初からものすごく怒ってた?」
「……ううん。最初に声を掛けられた時は、そう、普通に、ただちょっと叱られる感じだった……」
「それが、突然怒り出したんだよね?」
「うん、そう、だったと思う。そうだ。いきなり神気が爆発して、雷が落ちて、あたしびっくりしてその場から逃げたんだ」
「そっか。分かった。ありがとう」
「な、何かお役に立てた……?」
「うん、すごく」
棠鵺はある予測を立てる。それは、琅果は爛瀬を恨んではいるが、それでも本心では殺したいとは思っていないということ。それはレイもあの場で言っていた。なのになぜ、あのような凶行に及ぶに至ったのか。あれは明らかに殺すつもりの力が籠っていた。
白秋扇だ。
十二様も、恐らくあの時、白秋扇に触れてしまったのだ。だから同じ白秋扇で叩いたことによって、正気を取り戻したのではないか――と棠鵺は考える。
琅果もまた、昨夜、白秋扇に触れたことで何かが変わってしまったのだ。根拠も証拠も何もないが、しかし漠然とした確信があった。
白秋扇には月の力が宿っているという。では、そもそも月の力とは一体何なのだろうか。そういえば、白秋扇は西側に置くものだったな――などと考えながら、昨日、ここに来る途中にちらりと見えた白虎門を思い出す。西側。白。颱良はあの小さな虎を何と呼んでいたか。そう月宮だ。精霊界で月は玉兎。ならば精霊界に月という概念はないはず。だが、実際には暦においても名称においても月が存在している。
いや、きっとそれは関係がないと頭を振りながら、しかしやはり月――そして白秋扇の謎は深まるばかりだった。
(後でレイさんに聞いてみようかな……)
そう思ってレイが起きるのを待ち続けた棠鵺だったが、彼が起きたのは結局日が沈み始めて、東の空が濃紺に染まった後だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます