六.

 ***



 目が覚めれば、そこは見覚えのある天井だった。決して見慣れた天井ではないが、しかし見覚えはある。その微妙な親近感に逆に安堵の気持ちを覚える。

 爛瀬は朦朧とする意識を無理やり覚醒し、昨日のことを思い出す。恨まれていても仕方がないとは思っていた。しかし、まさかあそこまでとは――そう思うと、急激に胸が苦しくなる。その痛みが涙にならないよう、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。このままここに居たら、きっとどんどん惨めな気持ちになるに違いないと、爛瀬は怪我で怠さを訴える体を無理やり起こそうと――したものの、体は予想以上に素直に言うことを聞く。力を入れただけ空回りしてしまったその事実に驚きながら、自身の全身を隈なく触った。

 どこにも痛みがない。それどころか、怪我をする前よりも体が軽いくらいだった。あまりに体が軽すぎるため、もしや自分は既に死んでいて、ここは彼岸なのでは――とも考えたが、やはりこの体はどう考えても実体がある。では、やはり自分は助かったのだ。

 臥榻に腰掛けながら、不思議に思って首を傾げてみるも、その理由が分からない。それはさておき、これからどうするべきなのかもやはり分からず、この部屋から勝手に出て行って良いのかも判断もつかなかった。その時、目の前の扉が開き、棕滋と椋杜、そして雪晃が入って来た。


「爛瀬! 爛瀬! ごめんなさい! 生きてて良かった!」

 爛瀬の姿を見るなり、雪晃は大粒の涙をその瞳に湛える。そして勢いのままに爛瀬に抱き着いた。肩口に温かいものが落ちてくる感触がして、爛瀬は思わずその背をトントンと優しく叩く。

「無事に意識が戻ったようで何よりです」

 棕滋は眼鏡をくいっと上げ、爛瀬に微笑みかける。隣に控える椋杜は黙ったまま、何も言わずに視線を逸らした。

 棕滋は雪晃を爛瀬から引き剥がしつつ、近くにあった椅子に座らせる。そして自身もまた、臥榻の横に置かれていた丸椅子に腰かけた。

「昨日のこと、覚えてますか?」

「……琅果に、殺されかけた」

「えぇ、そうです」

「では、助かった理由は?」

「……覚えてない」

「そうですか」

 それだけ言うと、棕滋は次に椋杜に視線を移す。「ことの次第を教えてやれ」と、目がそう言っている。椋杜はその視線から逃れることができず、暫しの逡巡を経て、ぽつぽつと話し始めた。

「神族の、レイ殿が助けてくださった」

「神族……」

 それを聞いて、爛瀬は僅かに昨夜のことを思い出す。そうだ、「これは自分で治せるのか?」とそう聞かれたのだ。そして思わず首を横に振った。そのことを思い出して、全身がカッと熱くなった。それはつまり、自分が無力で弱い存在であることを認めたようなものだ。なんという醜態を晒してしまったのかと、思わず口許を覆う。

「お前の判断は、正しかった。あのままだと恐らく命を落としていただろう」

 そんな爛瀬の気持ちを汲んだのか、椋杜は昨夜の爛瀬の返答は正しかったと肯定してくれる。しかし、その優しさが更なる羞恥に繋がってしまう。

「その、弱い、役立たずで、ごめん……」

 恥ずかしさと悔しさと、複雑な気持ちを必死に抑えながら、やっとのことでそれだけを口にする。だが、椋杜は静かに首を横に振った。

「いや。そもそも本気の琅果に勝てる存在なんて……精々颱良が良い勝負をするくらいだろう」

「あ、あぁ……うん……」

「…………レイ殿が、褒めていた」

「褒め……俺を……?」

「あぁ。魂と体の癒着が強そうだから、多分すぐに目覚めると」

「……それは、褒め言葉なのか?」

 体が強いとか、魂が強いとか、それならよく分かるのだが、魂と体の癒着が強いというのは、果たして褒め言葉として受け取って良いものだろうかと、一瞬悩む。が、それゆえに目覚めが早いはずだと言ってくれたのなら、それはきっと良いことなのだろうと、爛瀬はその言葉を素直に受け取ることにした。

「それにしても、神族の治癒能力は本当にすごいんだな……」

「あぁ」


 脳も覚醒し始めて、徐々に昨夜のやり取りの記憶が蘇ってくる。彼がその血液をこの体に流し込んだ瞬間、一気に体が軽くなったのだ。助かったと、本能的にそう感じた。だから安心して目を閉じられたのだ。そう言えば、あの時彼は何かを言おうとしていた。「お前はまだ」と言った直後、「いや」とその言葉を否定したのだ。

何も失くしてない・・・・・・・・ってどういう意味だ?」

 そのあまりにも不可解な言葉を思い出して、思わず口に出してしまう。

「彼が、そう言ったんですか?」

「多分……」

「そうですか」

 それ以上の会話は続かなかった。室内には、たださめざめと泣き続ける雪晃の声だけが響く。

「雪晃、いい加減う……泣き止んでくれ……」

 いい加減うるさい――と言おうとしたのを必死に抑え込み、爛瀬はいつもの調子でそう言った。

「だって、だって、私のせいで爛瀬は死にかけたのよ?」

「でもお前が泣いたってどうしようもないだろ?」

「そうだけど、そうだけど! 違うの、違うのよ……」

 雪晃は必死に首を横に振る。

「私がこうしていれば、きっと、きっと大丈夫だって、そう思ってたの……」

「は?」

「でも、もうダメなのね。違うのね」

 次から次に溢れ出てくる涙を、薄絹の手巾ハンカチで飽きることなく拭い続ける。それからしばらくの後、雪晃は大きく深呼吸をして、自分の頬をぺちぺちとはたく。

「私、決めたわ」

「な、何を……」


「琅果を精霊界からちゃんと・・・・追い出すわ」

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