二.

 ***


 精霊界とはこのような場所だっただろうか――ふと足を止めて、レイは澄んだ蒼天を睥睨する。


 精霊界の首都・桃李京に着いて早々、始まったのはそこの門番だという男――琅果が椋杜りょうとと呼んでいた人物――による尋問だった。そのほとんどは琅果に対するものではあったが、当然ながらレイや棠鵺のことを無視するわけにはいかない。

 ほぼほぼ鎖界さこく状態にある精霊界において、他の種族の侵入というのは相応の理由がなければ認めるわけにはいかないと、椋杜は二人が桃李京に足を踏み入れることを相当に渋った。加えて、琅果も琅果で椋杜の質問にまともに答えるつもりがない。聞かれたことの多くを「あんたには関係ないことだと思うけど?」「それをあんたが知る必要がどこにあるの?」「別にあたしの勝手でしょ?」といった素気無い返答ではぐらかす。


 彼には彼の仕事があるということはレイにも棠鵺にも理解できる。だからこそ、黙って言うことを聞くつもりであったし、聞かれたことには答えようという心積もりもできていたのだが、そこに琅果が逐一横から口を挟んでいく。「とにかくこの男には絶対に何も教えない、教えたくない」という頑ななまでの意志がひしひしと伝わってくるほどに。

 そんな意味のない応酬を繰り返しているうちに、気付けば夜は明け、夜半には続々と集まってきていた野次馬もその頃になれば皆飽きて、そのほとんどが姿を消していた。静まり返った朝の冷たい空気に鳥の囀りが木霊し始めた頃、一人の使者がやってきた。使者は椋杜に何事かを耳打ちしたかと思えば、直後には琅果に向き直って拱手をし、ただ一言「おかえりなさいませ」とだけ呟いた。その後の展開は早く、椋杜も「許可が下りた。あとは好きにすれば良い」と溜め息と共に言い捨てて、その場を後にした。


 そうこうあってようやく入京できたは良いものの、夜はとっくに明け、啓蟄が如く人々が出歩き始める時間帯になってしまった。当初は「なるべく人目に触れたくないな~」などと言っていた琅果ではあったが、そんな自分の言葉はとうに撤回し、堂々と市中を闊歩している有様だ。恐らく椋杜との悶着の最中に居直ってしまったのだろう。勝手知ったる我が庭とでも言わんばかりにずんずんと進んでいく小さな背中に続きながら、レイも棠鵺もどう声を掛けるべきか分からずに、ただ黙るしかなかった。

 しかし、その沈黙の中に、どうしても無視することのできない違和感を、レイは感じ取る。


 空は、澄んでいる。しかしその清らかさに反して、何か体にまとわりつくような重苦しさ――澱んだ空気を感じるのは何ゆえか。一つ呼吸をするたびに、肺の中に澱が沈殿し、血液を通して体内を穢されていくような、そんな感覚があった。かといって、それはけっして陰の気が満ちているというわけではない。どれだけ考えても、これは明らかに華々しい陽の気そのものだ。そのようなことがあり得るのだろうか。レイは思案する。

 通常、陽の気は温かく、軽々しく、昇っていくものだ。反対に陰の気は冷たく、重々しく、底へ底へと降っていく。陽の気を糧とする精霊族が住む精霊界の空気は、その場で息をするだけで心が解放されると言われるくらいには、陽気なものであった――はずだ。

 妖族を除く全ての種族にとって、精霊界は心身の疲れを癒し、自らを高めるための理想郷であるとまで言われていた。一度足を踏み入れれば二度と自らの世界には帰りたくなくなる世界。だからこその魅惑の第三界層である。しかし現実はどうだ。

 行き交う人々の顔は例外なく疲弊しきり、朱と白を基調とした建築物の立ち並ぶ絢爛華麗な城下には活気というものが一切感じられない。漂う空気は確かに春の花の香であるはずなのに、かすかに紛れ込んでくる水の腐ったような臭いに思わず顔を顰めそうになる。その割に笑い声に満ちているのがまたどこか不気味さを感じさせる。けっして陰の気が満ちているわけではない。陽の気が落ちている――言うなれば、磁場が歪んでいる。

 これが琅果の言っていた「千年桜が機能しない弊害」というものなのだろうか。いや、そうではない――と、レイは直感的に思う。この歪みは、ほんの数日、否、数ヶ月で築き上げられるような規模のものではない。寧ろ何百年という時をかけて徐々に徐々に作られていったものだと考えた方が良いだろう。

ではそれはいつからなのか、なぜそのことに誰も気付かなかったのか――……。


 市中を見まわし、ふいに視線を落とせば、そこには不思議そうに見上げてくる琅果の顔があった。

「レイ兄、どうかした? なんか気になることでもあった?」

「あぁ、いや……そうだな……気になることがあるというか、気になることしかない」

「ふ~ん? まぁ、いいや。それは後で聞かせてよ。今はほら、ちょっと場所が悪いから」

 どこか気まずそうにそう告げる琅果の視線を辿れば、いくつもの怪訝な視線がある。こちらに対する敵意を一切隠そうとしない人物は何も一人や二人ではない。幾人もの、否、この街にいる大凡全ての存在が、自身を含むこの奇妙な集団を警戒している。その矢面に立たされているのは当然ながら妖族の棠鵺である――と思いきや、意外にもそれらは全て琅果に集まっていた。

「この先にね、もしかしたら頼れるかもな~って感じのヒトがいてね。とりあえず、そいつのところに言って話だけでも聞いてもらおうかなって。多分、うん、大丈夫だと思うんだけど」

 琅果の声が徐々に硬くなっていくことを感じ取ったのはレイだけではないらしい。これまで周囲の冷たい視線に心なしか委縮していた棠鵺が、ふいに一歩前に出て、そっと琅果の肩に手を置いた。

「琅果、本当に大丈夫?」

 そんな棠鵺の行動に、琅果の肩が一瞬驚いたように跳ねる。その後、ぱちくりと目を瞬かせたと思えば、満面の笑みで肩に置かれた手を握る。

「へ? あぁ、大丈夫! 大丈夫だよ、棠鵺くん! 棠鵺くんのことはあたしがちゃんと守ってあげるから、何も心配しないでね!」

 いや、そういうことじゃなくて――という言葉が喉まで出かかって、棠鵺はそれを苦笑という形で昇華した。分かっている。彼女にもそれだけ余裕がないのだ。人間界に居たときと比べて、琅果がずっと気を張っているというのは言われなくとも分かる。これ以上余計な気を遣わせてはいけないと、棠鵺は一言「有難う」と言ってその手を握り返した。


「とにかく、今は先に進むのが先なんだろ? その、もしかしたら頼れるかもしれない奴とやらのところに行って、詳しい話を聞かせてくれ」

 琅果と棠鵺の手が触れ合った瞬間、周囲の温度が変わった。それまではまだ辛うじてただの警戒として受け止められた視線に、本格的に憎悪の色が混ざり始める。他の種族の男女が手を取り合うこと。それがどれだけ恐ろしいことなのか、精霊族には小さな子供にまできちんと教育が行き届いているらしい。

 今にも石を投げられそうな空気の中、レイは住民から二人を隠すかのように、立ち位置を変えた。その変化に気付いてか、琅果もパッと棠鵺の手を離した。

「ごめんごめん! そうだね、本当に大丈夫かは行ってみないと分からないけど、ダメだったらそれはそれで別の作戦考えるから。今はとにかく急いでそこに行こう」

「その、目的地はここからどれくらいかかるの?」

「う~んと、そうだなぁ……都の西の端の方にあるから……それで今がまだ東側の居住区だから……このままのペースだと、大体五時間くらいはかかる、のかな……?」

「……それは、遠いね」

 考えてみれば不眠不休でここまで来て、なおかつ更に五時間も歩き続けるのかと思うと、流石に気持ちがどっと疲れてしまう。棠鵺のそんな気持ちをよそに、レイはこれまで沿って歩いてきた城壁を見上げ、感嘆の息を漏らす。

「ってことはこの城壁、概算で二十キラベイト以上はあるのか……すごいな……」

「え、レイ兄、感心するのそこ……?」

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