五幕 無常迅速

一.

 桃李京の北部には、雄大なる黎瑞山にその背を預けた皇宮――迎陽宮げいようきゅうが構えられている。元々は誰もがその威容に心奪われる、とても美しい宮殿であったものの、先の大火により、今となっては廃墟も等しい瓦礫の山と言っても差支えのない有様である。朱塗りの柱は尽く燃え落ちて、ただの木炭と化しており、至るところに飾られた黄金もほとんどが熔解し、本来の細緻な装飾の体を成していない。白亜の壁も丁寧に整地された石畳も、煤と灰によってその様相を見事に変えてしまった。

 あと一刻もすれば夜も明けるだろうという薄闇の中、そんな殺伐とした皇宮の一角に二つの影があった。一人はほっそりとした体に文官然とした重々しい服装を纏い、静々と足を運ぶ青年。もう一人はそれと正反対に、見るからに筋骨隆々とした体つきに道着といった風体の青年で、この時期にしてはまだ随分と薄い羽織を肩から掛け、豪快な足取りで歩みを進めていく。

「そういえば、タカさん」

 道着の青年が、自らの白い髪――部分的に、まるで動物の柄のように黒いまとまりのある髪――を掻き揚げながら、文官らしき男に話しかける。タカさんと呼ばれたその人物は、ちらりと相手を一瞥した後、眼鏡をくいと軽く上げる。

「何ですか?」

「琅果、やっぱり帰って来たって」

「えぇ、聞きました。宮中は今、その対応についての話で持ち切りですよ」

「だよなぁ」

 そこで話は一度途絶えた。お互いに何を話すでもなく、ただ粛々と煤けた石畳の上を歩いていく。


 かつての絢爛豪華な姿はもはや見る影もなく、未だきな臭さの残る皇宮は、それでも国政の中枢としての機能を失ってはいなかった。木造部分こそ燃え落ちたものの、石造りの建造物はその形を保持し、曲がりなりにも堂舎として必要最低限の役割を果たしている。そも、あの事変の最中に奪われたのは上帝とその后の命のみであり、大なり小なりの負傷者と、物質的な損害はそれなりに出ていたものの、それ以上の壊滅的な被害というものは確認されていない。

 先の上帝――皇木すめらぎ家の廷臣は、新たな帝家として即位した黄檗きわだ家の臣としてこれまでの地位を約束され、頭こそ挿げ替えられたものの、旧態依然として同じ職務を淡々とこなしている。もちろん、これまで集めた資料――歴史的価値のあるものも含まれる――や、今まで働いていた部署が燃えてしまった弊害というものも当然としてあるが、言い換えればそれだけであった。

 突如として起きた帝位簒奪という歴史的な大謀叛に反発がないわけではない。しかしながら、その謀叛の首謀者は、遥か昔に起きた妖族との大戦を窮地から救ったという精霊界の大英雄のすえと謳われる五家である。謀叛の起きた翌朝には、そのうちの青天目なばため家の当主によって、皇木家がこれまでにどれだけの失策を重ねてきたかが市井に生きる者たちにも知れ渡った。


 表向き、皇木家の永きに亘る統治には何も問題がなく、鼓腹撃壌とした日々を送っていた市民からは当然抗議の声も多数上がった――否、ほぼ全ての者が声を上げたと言っても過言ではないだろう。しかしながら、その数日後、皇木家の暴走を抑えることができなかったという責任を取るために、五家の代表として、やはり青天目家の当主が自刃するに至った。

 ただの帝位簒奪であるのなら、謀叛を起こした側の存在が自刃をする必要があるだろうか? 死んでしまっては元も子もなく、ならば彼の言ったことは真実だったのではないか? そもそも精霊界の守護者としての責務に篤い五家がそのように判断したのだから、それが正しかったのではないか? 自らの命に代えてでも主君の暴走を止めようとしたのなら、やはり彼らは英雄に違いない――……そのような声がたちまち市民の間に広まっていく。

 謀叛から最初の十日ほどはやはり混乱も多かったものの、喉元過ぎれば熱さを忘れるとでも言うかのように、その後に特段何か大きな事件もないままに二十日、ひと月と過ぎてしまえば、市民は途端に「これが正しかったのだ」と掌を返した。加えて、当初は自らの処遇について戦々恐々としていた廷臣たちも、新たな上帝となった黄檗家の当主、黄檗春雷ときあずま金晃きんこうが自らの地位や命を脅かすつもりがないと知れば、ある程度の疑念は抱きつつも、黙って彼らに従った。


 例えばこれが名もなき烏合の衆によって起きた謀叛であれば、ここまで順風満帆にことが運ぶことはあり得なかっただろう。しかしながら、首謀者はあくまでも精霊界の大英雄の血を引く者たちであった。その事実が、皇木家に忽焉と降りかかった悲劇を嘆く時間もそこそこに、これから先に訪れるであろう希望に満ちた未来を群衆に見せるに至ったのだった。

 結果として、五家による新たな統治は市民にすんなりと受け入れられ、精霊界の秩序は大寒の大火と呼ばれる大事件の前とさほど変わることなく守られている。もはやそのような事件があったことすら単なる記憶と化そうとしているのかもしれない。しかし、彼らの間でまことしやかに囁かれるのは、先の公主である桜桃ゆすらうめあざなを琅果とするその少女の処遇についてだった。


 かの事件以降、少女の姿を見た者はどこにもなく、彼女も両親と共に命を落としたのではないか、あるいは秘密裏に殺されてしまったのかもしれない。そのような噂が市中に流れ始めた。しかし、彼女の婚約者である雀居ささい――字を爛瀬らんぜ――の父親である赤檮いちいがし家の当主はその事実を否定している。曰く「公主に罪はなく、彼女の命を奪うことは有り得ない。彼女の身の安全は確保しており、雀居との婚約も破棄するつもりはない」とのことだった。

 とはいえ、生来勝ち気で活発だったあの公主が黙っているとは到底思えず、加えて事実として彼女の姿が目撃されていないのだから、その言葉を信じるには些か根拠が足りない。また、彼女がそのことに納得しているのならばそれが一番だという気持ちの裏腹で、あの公主は復讐の機会を狙っているのではないか――そんな疑念が徐々に募ってきたときだった。くだんの少女、皇木桜桃・琅果が青龍門の大破と共に、この桃李京に再び足を踏み入れたのは――……。


 無言のまま揃って皇宮を歩む二人もまた、五家に連なる者であり、それぞれ黒水くろうず家と白讃しらいし家の嫡男としての重圧や責務をその肩に担っていた。

「さて、どうしたものでしょうか」

 タカさん・・・・こと、黒水武尊ほたか棕滋そうし金烏きんう門に差し掛かったあたりで歩みを止める。つい数か月前までは烏を象った黄金が左右の柱の上部に飾られていたが、今となってはそれもまたただの金塊と成り果てている。焼け落ちた柱のすぐ隣で見るも無惨な姿となって地に堕ちた烏に視線を投げながらそう呟く棕滋を見つめ、僅かに先に進んだもう一人の青年――白讃虎杖いたどり颱良たいらは唇を尖らせて、小首を傾げる。

「どうしたものったって、まぁ、答えは一つしかないんじゃねーの?」

「それは、そうですが……」

 颱良のそんな根も葉もない言い草に反論する気力もなく、棕滋は静かに一つ、溜め息を落とした。

「しかし、妖族だけならまだしも、まさか神族まで連れてくるとは。人間界で何があったのか……」

「さぁ? でもほら、妖族は神族と一緒に居ることが前提になってるから、まぁ、そういう条件でも出されたんじゃないのかね?」

「それなら納得は……一応できますが。しかしこれで、公主が復讐しようとしているという噂に信憑性ができてしまいましたね。爛瀬くんやその父上の必死の説得が水の泡だ。帰ってくるときは人目を憚るようにと、あれほど言っておいたのに」

 頭が痛いと言わんばかりに、棕滋は蟀谷を軽く抑える。

「だけど、それならそれである意味計画通りなんじゃね? 実際、琅果もそういうつもりで帰って来てるだろうし」

 だから問題なんですよ――という言葉を、棕滋はぐっと呑み込んだ。

「けれど本人に確認するまではまだ時期尚早。颱良くん、勝手な行動はどうぞ慎んでくださいね」

 鋭い視線と声で、颱良に向ってそう釘を刺す。彼を単細胞であるとは思わないが、かといって冷静沈着且つ慎重に物事を進める性分ではないということを、幼少期からまるで実弟のように面倒を見続けた棕滋はよく理解している。自分にとって「それが正しい」と思ったのならば、どこまでも猪突猛進に突き進んでしまうのが颱良という男だ。その気概に助けられることも多々あるが、それだけが正しいわけではないことも多い。特に今回は彼にとって妹弟子である――そして棕滋にとってもまた教え子である――琅果の今後に大きく関わってくる話でもある。ちょっとした出来事が起爆剤となって、彼が暴走するかもしれないという懸念がどうしても払拭できなかった。


「分かってますって。ともあれ俺はあそこ・・・に戻るよ。琅果が頼ってくるなら、きっと俺だろうから」

 颱良とて、そのことは重々承知している――つもりである。実際に自分が冷静に動けるかどうかはさておき、今ここで感情や本能に任せて行動することが最善でないことくらいは理解している。だからこそ、こうした状況の中で棕滋を訪ねてきたのだ。

「そうですね。……彼女のこと、どうぞよろしくお願いします」

 颱良が以前から琅果に「どんなことがあっても、俺はお前の味方だ」と強く言い続けてきたことを棕滋は知っている。そして棕滋もまた、直接ではないにせよ、琅果に万が一の時の動き方というものを教えてきたつもりだ。彼女が多少なりともまだ自分達を信じてくれているのなら、きっと颱良の下にやってくるだろう。今は二人の間に存在している絆を信じるより他に、自分にできることはない。そう思って、棕滋は颱良に全てを託す。

「タカさんこそ、色々と頼んだぜ」

 燭台の炎に照らされて、彼の尖った特徴的な犬歯がよく見えた。その笑顔に少しの不安と多大な安心感を覚えつつ、徐々に白んできた空を見上げる。その時、雲の流れに沿うように、柔らかな桜の香が鼻腔をつく。よくよく覚えのあるその香りは、皇宮の中央部に立っている千年桜のそれに違いない。棕滋は思わず顔を顰め、先日の大火で最も被害の大きかったであろう、皇宮本殿をめ掛けた。

「満開まで、あと数日といったところでしょうか……」

「ん? あぁ、そうだな……去年より、少しだけ遅い、かなぁ?」

 ふと零された棕滋の言葉に、颱良もまた表情を引き締める。

せんにんざくら・・・・・・・……なんて、ただの言い伝えであれば良かったのですが」

 そっと呟かれたその言葉は、甘い風と共に、薄っすらと視界を覆う春霞の中へと消えていった。

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