二.
「それじゃあそろそろ僕たちも」と棠鵺が言いかけたときだった。遠くから泣き叫ぶ子供の声が聞こえてきたのは。
「お兄ちゃーーーん!! あやかしのお兄ちゃーーーーーん!!」
何やらとても焦った様子で棠鵺のことを呼んでいる。それも、繰り返し、繰り返し、喉が潰れそうな大きな声で何度も。棠鵺の家に里の人間が訪ねてくることは珍しくはない。むしろ日常茶飯事と言っても良かった。しかし、子供が一人で来ることはほとんどないし、ましてやこんなに焦りながら自分を呼ぶこともない。
何事かと棠鵺は慌てて声のする方へと急ぐ。そこにはショウブの孫のナリトが泣きじゃくりながら立っていた。
「ナリト!? 何があったの!?」
「お兄ぢゃん……!」
棠鵺の姿を見るなり、ナリトはその場に泣き崩れる。既に涙なのか鼻水なのかも分からないくらいに顔をぐしゃぐしゃにして、目の前にやってきた棠鵺に抱き着いた。
今年ようやく八歳になるその少年は、普段はそう簡単に泣くような子ではない。だからこそ余計に心配になる。一体何があったのか、と。
「ナリト、落ち着いて? 何があったのか教えてくれる?」
腰の辺りに回っているナリトの腕を優しく解き、棠鵺は彼と目線が合うようにその場にしゃがむ。頭を優しく撫でながら、自身の袖で彼の涙を拭った。しかし当の本人は完全に落ち着きを失っていて何を言っているのかも分からない。
「大丈夫だから、ね?」
腕を背中に回し、落ち着くように静かにさする。それでも泣き止まないナリトに対し深呼吸を促す。そうしてようやくひと息吐いて、改めて先ほどと同じ質問をした。
「うっ、あのね、みんなが、うぅ……」
「うん、みんなが、どうしたの?」
「急に、お山に……」
「え?」
「お山に入って行っちゃってぇ……」
聞けばこういうことである。里に住む大人の男たちが突然、仕事やそのとき行なっていた作業などを全て放棄し、まるで何かに誘われるかのように山の方へと進んで行ってしまったらしい。
この山は大昔、それこそ人間がここに住み始めた当初から禁足地として十二様に「入るな」と厳しく言われている聖域だ。たまに何も知らない旅人が足を踏み入れることもないわけではないが、里の人間は絶対に足を踏み入れようとはしなかった。
とはいえ、一応はこの屋敷から少し登ったところにある注連縄の張られた区域までは男ならば足を踏み入れることを許されてはいる。もしもその手前で思い留まってくれたのなら大事には至らないだろう。だが、そうではなかった場合――それは女神の怒りに触れてしまう大惨事になりかねない。
棠鵺はごくりと生唾を飲み込んだ。急いで彼らを連れ戻さなければ。
「レイさん! ナリトのことよろしくお願いします!」
そう思ったが早いか、棠鵺は障子一枚隔てたところで様子を窺っていたレイに声をかけ、返事も聞かずに外へと飛び出した。
「え、トーヤ、ちょっと……」
そんなレイの言葉は棠鵺の耳に届くことなく、ただ虚しく虚空に霧散していった。
「どうしよう、どうしよう、どこから探せば良いんだろう……」
勢いで出てきたは良いものの、正直なところ当てはない。そもそも彼らが集団で同じ行動をしているのかどうかが分からなかった。もしも皆が同じ方向に向かってくれていたならそれは僥倖だ。しかしそうでなかった場合、下手をすれば死人が出てしまうかもしれない。そう考えると思考は焦りの色を増していく。
このまま無我夢中に山を駆け回ってもそれは単なる時間の無駄だ。では自分に何ができるのかと言えば、動物たちの力を借りること。しかしそれは極力避けたかった。
もしも万が一、人間が武器となるものを持っていた場合、突然現れた動物に危害を加えてしまう可能性もある。狐や狸程度の小動物ならともかく、鹿や熊、猪などの動物は危険だろう。加えて、動物たち自身も人間たちに慣れていない。人間のちょっとした行動を勘違いして攻撃に出てしまう可能性も捨てきれない。
人間や動物が食用に互いを殺めることに対してとやかく言うつもりはない。自身もその恩恵に与っている。しかし、勘違いからの殺生が起きてしまうのはやはりどうしても避けたかった。それも自分の力不足が原因となればなおのことだ。
だから、彼らの力を借りるというのは却下だ。精々鳥類に語り掛けて上空から様子を見てもらう程度にしておくのが賢明だろう。
では他に何をすべきか――棠鵺はわらじも草履も履かずに飛び出した自身の脚を見た。爪先から膝下まで、
晴天の霹靂――突如として、山頂に雷が落ちた。棠鵺の全身の毛がぞわりと逆立つ。この雲一つない青空から雷が落ちるなどあるだろうか? それもこのタイミングで。
「十二様が、怒ってる……」
それは里の人間がこの地に足を踏み入れたからなのか? それとも逆だろうか。十二様が怒っているから里の人間が誘われたのか。
いや、考えても仕方がない。棠鵺は覚悟を決める。目指すは山頂だ。
自身の脚に巻かれたそれを引きちぎり、そこから現れた、まるで鳥類のような二本の脚に力を入れる。そして、全速力で山頂へと向かった。
いや、山頂ではない――と気付いたのは、神域の付近に着いたときだ。未だ桜の咲かぬこの山に、あの桜の香りが漂っている。まさかと思ってその匂いの元を辿れば、足は自然と神域の方へと向かっていった。
次第に強くなる香り、そして耳に届いた女性の声。足早に神域に向かいつつ、耳に届く声に意識を集中する。しかし、女性は何やら怒りのままに声を発しているようで、その金切り声が何を言わんとしているのかは全く聞き取れなかった。
もしもこの山に女性がいるのだとしたら、それは十二様か例の彼女でしかありえない。棠鵺はそう確信する。
神域に辿り着いたとき、棠鵺は思わず絶句する。そこには艶やかな長い黒髪を逆立てた、なんともおどろおどろしい女性の姿があった。
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