二幕 山鳴り
一.
それはレイが棠鵺の家で目を覚ましてから約二十日が過ぎたころだった。
「なぁ、この服って効率悪くないか?」
「そうですか? 僕にとってはこれが普通なので、特にそう思ったことはないですけど……」
「ふーん?」
件のあれやそれやでぼろぼろになってしまった自身の服はとりあえず里の仕立て屋に修理に出し、里の人間や棠鵺の屋敷にあった衣服を借りているレイではあるが、どうにも慣れないようでよく蹴躓いている。歩幅の大きなレイにとって、この里の服装はなかなか馴染めないようだった。棠鵺が着ているようなもう少し動きやすいタイプのものもあるにはあるのだが、そちらの方は如何せんサイズがない。
加えて、今日の「初夏に向けて衣服の綿を抜く」という作業にいささか不満があるようで、棠鵺の仕事を横目で見ながら、レイはどこか不思議そうに首を傾げた。
薬なしでも痛みが耐えられるようになった途端、「これ以上世話はかけられない」などと言ってすぐに出ていこうとしたレイではあったが、そこは棠鵺にやんわりと断られた。
「そんなすぐに傷が開くのに何を言ってるんですか? しかもここ数日微熱が出てますよね? 世話をかけられないと思うならまだおとなしくしててください」
と、多少の怒気を孕んだ声で言われてしまっては返す言葉もない。無理に出ていくこともできないわけではないが、現状
そうしてなんだかんだとこの屋敷に居座って数日が経つ。
とはいえ一方的に世話を焼いてもらうばかりでは忍びない。最低限のことはするからと告げれば、「それなら簡単な家事を手伝ってくれ」と言われて現在に至る。
「えっと、じゃあ、この箱を上の棚に置いてもらって良いですか?」
「ここで良いか?」
「はい! 有難うございます。お陰でわたぬきも早く終わったし、本当に助かってます」
どうやら今年は例年よりも気温が高いらしく、いつもは桜が散る時期に行なっているわたぬきも早めに終わらせたかったらしい。冬用の衣服から綿を抜いたり、衣服そのものを替えてしまったりしながら、着々と春から初夏にかけてを過ごす準備を進めていく。
「レイさんすごく背が高いから、とても助かってます。僕じゃそこまで届かないので……」
苦笑しながら言う棠鵺は実際レイよりも頭一つ分以上小さい。そんな棠鵺を横目でちらと一瞥し――
「あぁ……お前、身長低いから……いっ! てぇ~……!」
何気なく言葉を返して部屋から出て行こうとしたレイではあったが、「ごっ」という鈍い音と共にその場に蹲った。どうやら障子の鴨居に思いきり頭をぶつけたらしく、額をさすりながらおもむろに立ち上がる。
「ちょっ……またやったんですか?」
これは何も今回が初めてのことではなく、彼が起きて歩き回るようになってから日に最低一度は必ずやっていることだ。
「僕が低いんじゃなくて、レイさんが高すぎるんだと思うんだけどなぁ……」
ぽつりとそう呟きながら、棠鵺は「大丈夫ですか?」とレイに駆け寄った。
「もう、いい加減慣れてくださいよ。これで何回目ですか?」
「なぁ、この家、天井低すぎないか?」
自身の過失を露とも認めようとせずにそんなことをのたまうレイに対して、棠鵺は「だからぁ」とため息混じりに腕を組む。
「あなたが大きいんですって」
「そうか? あまりそう思ったことはなかったんだが……」
その答えにどうにも納得がいかないようで、レイは首を傾げて自身の目線より少し高い位置に手を翳す。
「相対的なものだからじゃないですか? 神族は大きいとはよく聞きますし」
「それは……態度の話か?」
「なんでそう答えにくいことを……いえ、否定はしませんけど」
「だろうな」
実際、神族と言えば世界の実権を握っていると言っても過言ではない種族だ。六界の最上界である第一界層に世界を築き、そこから人間をはじめとしたあらゆる種族を管理している。現在の世界のシステムの多くは神族が創り上げたものだと言っても過言ではない。
とはいえ、ここ数日ともに過ごした限りではレイはその印象とはかけ離れているようにも思える――と棠鵺は感じていた。レイが自らの置かれた状況を理解すると同時にあれやこれやと命令されるのではないか、と多少危惧していたところはないわけではないのだが、結局それは杞憂に終わっている。
むしろ指示を出すのは基本的には棠鵺の方であり、レイは棠鵺の言うことには意外にも素直に従っていた。たまに訪ねてくる里の人間ともそれなりに――あくまでも
「でも、レイさんはあんまり、その……そういう感じがしないですよね」
どう表現すれば失礼に当たらないのだろうか? ——そんなことを考えつつ、曖昧に言葉を濁す棠鵺に「そうか?」と言いながら、レイは宙を見る。
「まぁ、威張っても仕方ないからな。世話になってる身だし」
「えっと、その、ありがとうございます」
「別に、礼を言われるようなことは言ってないけど……」
ほんの一瞬の沈黙。直後、棠鵺は破顔する。そんな彼の様子にどこか気恥ずかしそうに、レイは心なしか唇を尖らせた。
「それはそうと、そろそろお昼にしましょうか」
今日のうちにやっておきたい仕事はもう済みましたし――と付け加えて、棠鵺は腰を上げた。
この時間になると、山から動物たちが降りてくる。もちろん棠鵺に餌をたかりに来ているわけだが、彼らとのそうした触れ合いの時間というのは妖族である棠鵺にとっては何よりも大切な時間だった。
「こいつらいつも来てるけど、野生としてそれで良いのか?」などと、最初こそ言っていたレイではあったがそれも今や日課として受け入れている。
妖族は他の種族と比べて絶対数が少ない。それは過去に起こったある戦争がきっかけではあるのだが、世界に五つの禁忌が存在している現状、彼らは孤独を余儀なくされていた。
能力が不安定で、本人の意思に関係なく妖術を発動してしまうという妖族は大変危険な存在である――というのが世間の常識であり、だからこそ彼らは他の種族のように群れることを許されていなかった。もちろん絶滅は回避しなければいけないが、一つのところに必要以上の妖族が住まうことで不都合が起きてしまうことを、人間は極度に恐れている。
それゆえに神族は人間五○○○人程度のコミュニティにつき妖族が一人住むことを許し、彼らを完全に管理することによって人間界のバランスを保つことを決めた。
この山に五○○○人もの人間は存在していない。麓の里ともう一つ山を越えた先にある村、そして更にその先に存在している川を挟んだ集落、またこの山の反対側に存在している漁村を併せても、人口は一五○○人に及ぶかどうかだ――とレイはショウブと呼ばれる里の長に先日聞いた。つまり、この近辺に妖族は棠鵺しか存在していないことになる。
この地に降りた神族――曰く、
現状、棠鵺は麓の里の人間とそれなりに上手くはやっている。それなりに上手くはやっているが、それはあくまでも
そんな妖族の不幸中の幸いは彼らが動物と意思を疎通できるということだ。ヒトと話す機会に恵まれずとも、動物たちと触れ合うことで完全なる孤独という状況からは最低限脱することができる。
その事実に気づくのにそれほど多くの時間を要することはなく、棠鵺にとって山から動物たちの降りてくるこの時間がどれだけ必要なものなのかを悟ってからは、レイも特に何も言わず彼とともに動物の世話をすることを楽しむことにした。
「でも、動物と意思の疎通ができるっていうのはなかなか便利なものだよな」
レイは足元にいた狐を一匹抱え上げじっと目を合わせる。
「そうですか? あ、あんまり目合わせちゃダメですよ。敵対行動って思う子も……あ!」
言った側から繰り出される狐の右パンチ。それは見事にレイの左目にヒットした。
「それは、もう少し早く教えて欲しかった……」
「すみません……」
「いや、いい。今のは俺が悪い」
既に完治している左目の傷を抑えながら、「悪かったな」と狐に謝りその背を見送る。
「でも、やっぱこういう事態になりにくいっていうのは便利だと思うけどな」
「う~ん……それでも世界の実権を握れる方がよっぽどお得じゃないですか?」
「そうでもないと思うけど? そもそも神通力なんて大したことはできないしな」
その
「動物は、ちゃんと行動で示してくれるから分かりやすいですよ。言葉なんて通じなくても」
「そういうものか?」
「はい、そういうものです」
「ふーん……?」
相変わらず穏やかな笑顔を湛える棠鵺とは対照的に、レイは相変わらず深い皺を眉間に刻んだまま、不思議そうに首を傾げた。
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