三.
「十二様!」
棠鵺はなりふり構わず女性の前へと飛び出す。不安に思わないわけではない。しかしまずは彼女の怒りを鎮めなければ結局はこの山だけでなく、その周囲にも甚大な被害が出てしまうだろう。
赤く光る女性の瞳が棠鵺を捕らえた。棠鵺は身を固くする。次の瞬間に自らの命がある保証はどこにもない。
しかし、意外にもその瞬間、周囲に満ちていたピリピリとした空気が和らいだ。
「そなた……そなたは、
先ほどまでの金切り声と同じ声とは思えない、とても落ち着いた柔和な声が聞こえてきた。
「はい、そうです。十二様、何があったのですか? 何をお怒りになっていらっしゃるのですか?」
聞くなら今しかない。棠鵺は彼女の逆鱗に触れないよう細心の注意を払いつつ、しかし回りくどい言い方はせず、はっきりとした口調でそう問う。
はた、と十二様――と思しき女性――の動きが止まる。こてんと首を傾げて「怒っている?」と不思議そうに口を開いた。
「妾がか? 何を? 何を怒っているか、じゃと?」
途端に周囲の重圧が膨張する。まずい、間違えた――そう後悔してももう遅い。彼女は再びその長い黒髪を逆立てた。大地が唸りを上げ、水は怒りに舞い狂う。荒ぶる風に紛れて木の葉や枝だけでなく小石までもが宙を舞う。パチン、パチンと、耳元で何かが弾けるような音がした。
「えぇい! 何を白々しい!」
嫌な予感がする。棠鵺の脳裏に過るのは、先ほどの落雷だ。もしもこの静電気が雷を誘発するものだったら? まずい――本能的にそう感じた。しかしかといって雷を防ぐ手立てがこの場にあるのだろうか?
まるで生き物のように襲いくる水の脅威を寸でのところでかわしつつ、棠鵺は周囲を観察する。周りにあるのは木、木、木……そう、木ばかりだ。あとは池と、その中心に堂々と立つ大きな樹。どう考えても雷を防げるとは思えない。
パチン、パチンと耳元で鳴る間隔が次第に早くなる。そのとき、ぴちゃん……と池の中で何かが跳ねる音が聞こえた。瞬間、棠鵺は躊躇なく池の中に飛び込んだ。
全身を完全に池の底へと沈めたまま、棠鵺は上を見る。直後、水面に無数の光が伝う。しかしそれはほんの僅かな時間であり、水上はすぐに静けさを取り戻した。
(やっぱり……)
たとえ川や池に雷が落ちたとしても、その生態系が全滅するようなことはそうそう起こらないはずだ。それはつまり、完全に水の中に入ってしまえばむしろ安全だということではないか――あくまでも直感でしかなかった。しかしその直感に従うかどうか。それこそが窮地における生死の分かれ目だ。
自身の動物的本能に感謝しつつ、しかしこのまま浮上するわけにもいかない。かといってずっと水の中に潜っていては息が続かない。さてどうしたものかと思考を巡らせる。
ふと、飛び込んだ側とは反対の岸に目が行った。そう、あの中島だ。思い返してみれば、レイを助けて以降なんだかんだとここに足を運ぶ機会がなかった。つまり、祈年の儀は中途半端に終わらせてしまっている――ということになる。
(まさか……?)
十二様の怒りの原因はそれなのでは――そう思い至って全身から血の気が引いていくのを感じた。
いや、しかし過去にも何度か祈年を中断せざるを得なかったことはある。それは先代からも聞いた話だし、自身も一度はそういうことがあった。その年に実りが少なくなったり山から動物が降りてきてひと騒動あったりということはあったものの、彼女がここまで怒りに身を任せることはなかったはずだ。
だとしたら、あの時に神域を血で穢したことが問題なのだろうか?
いや、ここでどれだけ考えても結局それは憶測に過ぎず、彼女の真意を知ることはまず不可能だろう。やはり、彼女の怒りを鎮めるのが先決だ。
ではどうすべきかと言うと――棠鵺は再び中島の岸を見た。
あそこには儀式のときに使った扇がそのまま置いてあったはずだ。いや、玄冬扇はあのときに家に持って帰ってしまった。今、あそこにあるのは三把だけ。うち二把はこの状況ではあまり役立つとは思えない。だが残りの一把――
目指すは島の南側の淵だ。そこならちょうど十二様のいる場所からは陰になり、朱夏扇もすぐに手にすることができる。
鳥居と橋があるのは島の東側。そして彼女がいるのは北側だ。それを目安に棠鵺は水面下を静かに泳いでいく。
しかし計画というものはなかなか上手くいかないものだ。途端に周囲の水が波打つ。まるで水を入れた
なすがまま流れに体をとられる。何度目かの大きな波のあと、棠鵺の体は空へと投げ出された。しかし、不幸中の幸いにして投げ出されたのは島の上だ。棠鵺はその流れに逆らうことなく、そのまま島の聖樹の葉の中へと身を隠す。一呼吸ついてから、扇を安置している台座目掛けて飛び降りた。
しかし、突如として吹いた突風に目標は外れる。棠鵺の体が落ちたのは南側ではなくほぼ西側に近かった。仕方ないとばかりに目の前にある白の扇――
扇を手にすると同時にそれを開き、水面に向けて大きく一煽ぎ。扇の描いた軌跡から炎が生まれ、瞬く間に周囲は水蒸気に包まれる。
「えぇい! どこに行った!」
裂帛のごとき声が響く。次第に濃くなる水蒸気はまるで霧のように神域全体を包み込んだ。完全に互いに完全に視界を奪われた中で、しかし機動力は棠鵺に分があった。彼女の重い衣服ではそう素早く動きまわることはできず、加えて感情で判断力を失っている彼女の後ろを取ることはそう難しいことではなかった。
とはいえ、朱夏扇で直接攻撃するわけにはいかない。
「十二様、ご無礼をお許しください」
棠鵺はイチかバチか反対の手に持ったままの白秋扇に軽く妖気を込め、彼女の後頭部を打つ。これで気を失ってくれたなら――そんな淡い期待を抱いて。
しかしそう上手くいくはずもなく、彼女は棠鵺の腕を掴み、後ろを振り向き――
「……
途端に周囲の空気が静まっていった。彼女は何事もなかったかのようにきょとんと首を傾げ、不思議そうに棠鵺を見る。
「え、あの……」
「というか、なんじゃこの霧は? いや、霧ではないの。まったく暑苦しい! なにゆえ斯様に蒸すのじゃ!」
棠鵺の腕を離し、十二様はおもむろに自身の衣服の襟を開く。そして手扇ではたはたと自身の首元を煽ぎ、至極不快そうに声を上げた。その様子に、棠鵺は慌てて白秋扇と朱夏扇を、一切の妖気を込めることなく煽いだ。徐々に水蒸気は消え、視界は開けていく。
「おい、ブリトマータ!」
そのとき突如として背後から聞こえてきた声に、今度は何事かと振り向けば、そこにはレイの姿があった。
「ぶりと……?」
聞きなれないその単語に疑問を抱きつつ、「もしかしてそれが彼女の本当の名なのだろうか?」と思いながら、棠鵺は十二様に目を向ける。そしてぎょっとした。
「なぜ、なぜ妾の名を知っておる? いや、貴様! そう貴様じゃ! なにゆえここに貴様がおるのじゃエレイス!!」
彼女は顔を真っ赤に染め上げ、わなわなと怒りに打ち震えていた。そしてまたしても耳にキンキンと鳴り響くような金切り声を上げながら、レイを指さす。
「ぬえ、ぬえ!
言いながら十二様――ブリトマータは棠鵺の両肩に手を置く。やや足をかがめ、目線を棠鵺に合わせ、鬼気迫る顔で棠鵺を説得しようと試みる。
「十二様、一体何の話をしていらっしゃるのですか?」
「よいか、ぬえ。この山には妾が必要じゃ。
棠鵺の言葉になど一切聞く耳を持たず、ブリトマータは捲し立てる。そう言って指さしたのは先ほど棠鵺と彼女との一悶着によって見事に抉れた大地やなぎ倒された木々だった。
「いや、それはお前がやったんだろ?」
「うるさい、うるさい! 貴様が来なければこうはならなかったのじゃ! そもそもこの妾の大切な、そう大切な庭をあんな、あんな大量の血で穢しおって!」
「俺が知るかよ。
キーキーと喚くブリトマータを軽くあしらいながら、レイは棠鵺のもとへと歩みを進める。
「いえ、その、助かりました」
ブリトマータが突然我にかえったのは、きっと彼が何かしてくれたのだろう――そう思って、棠鵺はレイに感謝を伝える。実際、レイが来なければあのまま命はなかったかもしれない。そう思うとぞっとしなかった。
「ところで、えっと状況がまったく呑み込めないのですが……十二様、あれほどまでにお怒りになられた理由を伺っても構いませんか?」
棠鵺がおずおずとそう申し出たところで、ブリトマータははたと動きを止める。
「怒っておった? いや、確かにその男に怒ってはいるが、そなたに怒りをぶつけるような真似は……いや、いや、しておったな。なぜじゃ? なぜ妾はあんなにも怒りに踊らされておった? 妾はそなたや可愛い人間たちを心配していたはず。だからそこの男を追い出す方法を考えていたのじゃ。はて? 記憶がないの? 何が起きた? エレイス、貴様、妾に何かしたか?」
そう言ってレイに疑惑の視線を向けるも、彼は「さぁ?」と首を振る。
「そもそも、俺とお前は今ここで初めて――神界ぶりに会っただろ。俺に何かする機会はなかったはずだが?」
「いや、貴様の力なればそれくらいのことは――いやいや、しかしそれには相応の時間を要するな。他の種族が相手であるならともかく、
念を押すようにそう問うブリトマータに、レイは一度だけ、だが確固とした意思と共に力強く頷いた。
「そうじゃな。妾は貴様を好かぬが、しかしかといって貴様をそれほど矮小な男と思っているわけではない。よい、信じよう」
「あれじゃないのか? なんだっけ、人間で言う……老化からの、物忘れ……?」
「ちょっ、レイさん……?」
「貴様、なぜ妾がせっかく褒めてやった直後にそのようなことを言うのじゃ? 阿呆なのか? いや貴様は昔から死んでも救えぬ阿呆ではあったが。まぁ、よい。妾はまだそこまで老け込んではおらぬ。今から経緯を話すゆえ、確と聞くがよい」
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