第5話
翌朝、洗面台の前でメイクをしていたら、鏡越しに紗友希がこちらを睨みつけるのが見えた。
「なんか用?」
「……私、もうすぐ一人暮らしするから」
大学を辞める話をしていたはずなのに、突然一人暮らし? 話が見えなくて、私は首を傾げた。
「あんたと一緒に暮らしてると馬鹿が移る」
「馬鹿が移る説ってマジなん?」
紗友希の行き過ぎとも思える暴言には慣れているので、私はこともなげに返す。姉はふんと鼻を鳴らしてその場を去った。
「紗友希ちゃんねえ、有紗ちゃんが大学生活を謳歌して、毎日夜遅く帰ってくるのを見ていると、勉強とか、実習とかがばかばかしく思えてきちゃうみたい」
朝早くから必修講義がある姉のいない朝食の席で、私は母にそう聞かされた。暗に責められているのは分かるけれど、そんな筋合いもないので私は気づいていないふりをする。私は私でちゃんと大学の単位はそろえているし、GPAだって悪くない。
「へえ」
「それで昨日、大学を辞めたいなんて言い出して……そんなのもったいないじゃない? だからなんとか説得して、そうしたら一人暮らしをするって言い出したの」
「医学部様は大変だ。私の彼氏も実習ダリいっていつも言ってる」
軽く返すと、紗友希ちゃんはそういうのが腹立つのよ、と母がため息を漏らす。
「どうなの? やっぱり、娘が独り立ちするって寂しいわけ? ――あ、別に金銭的に独り立ちするわけじゃないと思うけど」
「それはそうよ、それにまだ学生じゃない、私たちだってまだまだ甘えてもらう気持ちでいたのに」
「そういうもんなんだ」
金銭的に、という言葉を口にしたことでひとつ、思いついたことがある。――しかし、その場でそれを提案するのは危険だと判断して、私は口をつぐんだ。
その日、大学の構内で亜紗希を見かけた。幾分久しぶりだった気がした。そもそも医学部は二年生から他のキャンパスで専門の講義を受けることが多く、こっちのキャンパスに顔を出すのは一部の事務手続きか、サークルか、落とした一般教養の単位の回収かといったところだ。
「久しぶりー!」
私は亜紗希に声をかけた。少し眉をひそめたその表情を見逃さなかった。
私たちは、近所のイタリアンカフェでランチをすることとなった。相変わらずアイメイクをあきらめていて、ファンデーションの色もどこかおかしい彼女は、どのような学生生活を送っていたのだろう。
私は、ここでも彼氏の話をした。イケメンで、帰国子女で、医学部で。――こうやってスキルだけ並べると、本当にハイスペックな彼氏であることを実感する。そんな彼を射止めた私の顔面はすごいな、なんてうぬぼれたことを思ってしまうわけなのだが、それも今のうち、だろうか。
「亜彩希ちゃんも、早く彼氏見つけなよー。なんなら、私が紹介してあげようか? そんなに腰が重いようだと、いい人はすぐに取られちゃうからさ」
そんな愚かな提案をした私のことを、亜紗希は馬鹿だと思っただろうか。
「報告してなかったけれど、実は私も彼氏居るんだ」
「へえ。同じ学部?」
「まあ、そうね。学年は違うけど」
どうして、と思った。地頭がいいだけで、何の努力もしていないこんな女が、紗友希が欲しがっていたものも、私が必死で手に入れたものも、全部いつの間にか持っている。そんなこと、許される? 相変わらず私の話なんかに興味なさそうにあくびをしていて、それを隠そうとする様子もない彼女につい、イヤミを言ってしまった。
「……あのさ、亜彩希ちゃん。余計なお世話だったらごめんだけど、そのブラウス、亜彩希ちゃんには似合ってないと思う」
実際、ノーメイクで甘いファッションを着こなすのはとても難しいと思った。フリルとか、リボンとか。とてもかわいらしく、私も大好きなアイテムなのだが。
「今度、一緒に買い物行こうよ! 私がデートにぴったりな服、選んであげるからさ――」
「ありがとう」
亜紗希は少し馬鹿にした風に笑った。
「でも、もうすぐ実習が始まって忙しくなるから、予定が合えば、だね」
その言葉を額面通りに受け取るほど私は馬鹿ではなかった。亜紗希の中で、私の存在は価値を失った。そのことをまざまざと見せつけられた気がしてしまったのだ。私は黙ってスパゲッティ・アーリオ・オーリオを食べ終える。
その日の夜。
「ねえ、紗友希の一人暮らしの件だけどさ。――紗友希じゃなくて、私が一人暮らしをするってのはどう?」
私は両親に、そんな提案をしていた。
「ほら、紗友希はやっぱり、大学の授業が忙しいでしょう。あ、勘違いしないでね――私だってこう見えて授業はちゃんと受けてるよ? だけどやっぱり、紗友希よりは講義数も少ないし、周りの人との競争も激しくないのは事実。時間には余裕があるし、私はバイトだってしてるし。月に八万ほどは稼いでるからさ、仕送りも少なくて済むかもよ?」
紗友希はアルバイトをしていなかった。医学部生の家庭教師の需要は多いから、その気になればいくらでも稼げるとは思うのだが、彼女は「学生の本分は勉強だ」として、絶対にアルバイトをすることはなかった。
「でも、有紗ちゃんだって、何かと忙しそうじゃない?」
「私の忙しいのは、もうおしまいだから」
合コンや、食事会や、サークルとかそういうの、もういいや、と思い始めていた。私のことをある種のコンテンツのようにしか見てくれない人間関係なんて、捨ててしまえばいい。
「紗友希がどう思ってるのか、ちょっと確認してみるから」
「お願いねー」
私はどこか安堵していた。――どうぞどうぞ喜んで、とは言われなかったから。私だって忙しそうだけど大丈夫かと問われたこと。たったそれだけの軽い足止めに、私はほっとしてしまった。
私と紗友希。紗友希と私。姉が私の上位互換であるのであれば、私はこの場から消えた方がいいのかもしれない。そう口にすれば、母は泣いて否定するだろうし、父は烈火のごとく怒るだろう。劣化版が消えるときは、あくまでスマートに、が鉄則だ。
「そういうわけで私、実家を追い出されちゃいまーす!」
「なにそれウケる、かわいそう」
高校同期の集まる女子会で、私は高らかに自分の身の上を発表した。――毎晩遊び歩いていたら、医学部の姉に疎まれて実家を追い出されてしまいました。面白おかしく語ると、口ではかわいそう、と言いつつも皆笑ってくれた。これ、当面のすべらない話になりそう。
「でもさ、有紗、少なくとも就職するまでは実家から通う気でいたんでしょ? 大丈夫なの? 家事とかできないよね」
「全然できる気がしないしする気もない」
「私が料理とか教えに行こうか?」
おせっかいな高校同期の一人に悪いからいいよ、なんて笑顔で答えながら、私は心の中で唾を吐く。料理くらいできる。バーベキューの件があってから、私は料理の勉強をしていた。家庭的な女性はモテる。これ、鉄板だから。
帰り道、瑠璃からは「本当に有紗って性悪」って言われた。
「本当は全然家事の心配なんてしてないんでしょう。私、有紗に手料理ふるまってもらったことあるから知ってるし」
「だってほら、私って出来の悪い顔だけ女ってイメージあるじゃん。それに乗っかっておかないと、なんかちょっと変な感じになっちゃう」
「……また、うちに遊びに来てよ。ハンバーグとか、作ろう」
「食べたいだけでしょ?」
私は悪態をつきながら、なんだか泣きたい気持ちになっていた。
翌日。私は大学の広場で彼氏の英明くんと電話をしていた。彼の方から珍しく連絡があったと思いきや、別れたい、との話であった。
「分かったよ」
縋りつくなんてみっともないから。それに、私と英明くんは誰がどう見ても不釣り合いで、話も合っていなくて、逆にどうしてこの二人がカップルなのだろう、というありさまであったのは確かだった。
「理由だけは教えてよね、せめてもの礼儀として」
相性の悪い私たち。そんなことは付き合い始めて一か月やそこらで分かっていたはずなのに、それでも彼は、今まで私と一緒にいた。それなのに突然、この妙なタイミングで別れを切り出すということは、何かきっかけがあったと思う方が自然である。
「……理由はさっき言ったとおりだって! 俺たちあんまり話合わなかったじゃん。有紗だって、いつもつまらなそうにしてたし」
「私に責任転嫁する気? 私は一応、英明くんと一緒にいるときは楽しそうな演技くらいはしてたよ」
「……」
「分かってるんだから。次がいるんでしょ!」
どうして、男子って嘘がつけないのだろう。
「……ごめん」
「かわいいの? 頭はいい?」
「有紗よりはかわいくないよ。……性格は、おとなしくて、照れ屋で、守ってあげたくなるような地方出身の子」
分かりやすいな、と思った。ずっとステーキを食べ続けるのは飽きるし、たまにはお茶漬けを食べたくなるみたいな話、よく聞く。そこまで詳しく聞いてもいないのに、こいつはどうしてぺらぺらと恥ずかしげもなく。
「そう。お幸せに。いっちばん幸せなタイミングで、振られればいい」
私はそれだけ言うと、通話を切った。ふと周りを見回すと、私のことを遠巻きに眺めている学生がそそくさと過ぎ去っていった。しまった、声が大きすぎたか。
そして、そんな生徒の中に亜紗希が混じっているのを発見した。
「逃げようったって無駄だから! ちゃんと気づいてるから」
自棄になって叫ぶと、亜紗希は小さくため息をついてこちらへと歩み寄ってきた。
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