第3話


 亜彩希は、松葉杖をつきながら、共有スペースへと歩きだす。


「……私が亜彩希のことを見下してるなんて、そんなことあるはずがない」


 私は彼女の言葉を否定した。当たり前だ、彼女は神童なのだ。将来も約束された、天才少女。そんな彼女をバカにするだなんておこがましい。


「それに、人のことをバカにしてるのはどっち? 今までさんざん、恥をかかされてきたのは私」


 思えば私は亜彩希の隣で、いつだって恥ずかしい思いをさせられてきた。


 勉強を教えてもらう度に、惨めな気持ちになった。


 学校を休んで、宿題を写させてもらったときだってそうだ、彼女が難読漢字を平気で使うから、授業でその部分を当てられれば私は読めない。結局、亜彩希の宿題を写したことは秒でバレる。


 亜彩希ちゃんから勉強教えてもらえば良いのに。皆が私のことを見てそういうけれど、私は彼女の頭に追い付いていけない。だから、私は亜彩希とは別のことで、自分の価値を見いだそうとしてきたのだ。お洒落な見た目に、愛想の良い性格。憧れの先輩キャラになることはできなくても、同学年の生徒や上級生に可愛がられることはできる。運動もそこまで得意ではなかったから、とにかく「女子っぽくあること」に徹した。


「でも、夏子はしっかりと分かっている。私が、本当は勉強しかできないこと。勉強を抜いたらなんの価値もないってこと」

「そんなこと言ってない――」

「否定しなくても大丈夫。自分でもわかってるし、そこまで気にしていることでもないし」


 何かひとつ、誰よりも得意なことがある人間は、強い。


「見下されてるんだろうなって分かっていても、私はそれでよかった。そうであったとしても、夏子は私の親友であることには変わりなかったし、それでギブアンドテイクが成り立つならって」


 そのように考えたことは、なかった。ギブアンドテイク、亜彩希が私に勉強を教える変わりに、私が不器用な亜彩希の手助けをする。確かに、それは助け合いの関係であり、対等なものであったってよかったはずだ。


「でもね。――東京に行くことも、彼氏ができたことも、夏子に相談できずにいる自分に気づいたときに、ああ、違うなって」


 亜彩希は、どこか遠くを見ていた。それがこちらにまっすぐと向き直ったとき、私は彼女の瞳の色の美しさに目を奪われた。今まで見ないようにしてきた、琥珀色。


「夏子。おしまいだよ」


 少し寂しそうに、そしてどこかすっきりとした表情で、亜彩希はそう言い切るのだ。何も言い返すことができなかった。私たちの住むこの小さな世界で、亜彩希の言うことは一番正しかったから。





 帰り際、亜彩希に階段から落ちた理由を尋ねた。本を読みながら歩いていたら、足を滑らせたとのことだった。なんとも彼女らしい理由だと感じたし、いつもの私なら、本を読みながら歩いちゃダメじゃんって何回も言ってるよね、と小言のひとつやふたつを言ったものだったけれど、それももう、「おしまい」。


 亜彩希はほどなくして学校に復帰した。私の周りにはそれなりに友だちはいたし、亜彩希の周りにはあまり人がいなくて、それでも彼女は飄々としていて、つまりは彼女の入院前となにも変わらなかった。ただ、私が彼女に不必要に絡むのをやめただけ。そのことを気に留める人間はいなかった。それだけ、私と亜彩希は「違う」人間だった。


 高校3年生になり、私たちは違うクラスになった。亜彩希は特進理数系コース、私は一般理数系コース。別に亜彩希に感化されて理系を選んだわけではないし、同じ理系だというのに、私たちはただ単純に、レベルの差だけで分断される。つまりは、そういうこと。亜彩希と私は、同じになり得ない人間だった。





 私が地元の大学の看護科に猛勉強の末、奇跡的に滑り込み、亜彩希が予定どおり、東京の大学にトップの成績で合格する。全てが予定調和で、彼女の上京の日に母から「亜彩希ちゃんの見送りに行ってきなさいよ」と言われることも、予想済みだった。


「今さら媚売ってどうすんのよ」


 1年前の件があって、私は亜彩希と関わるのをやめていたし、今さらなんなんだ、と思う。亜彩希だって、そんなことは求めていない。


「でも、亜彩希ちゃんには本当にお世話になっていたんでしょう。お礼を言って、ちゃんとお見送りするのが礼儀ってもんじゃないの」

「知ったようなこと言わないで。私は、お母さんに言われて、仕方なく亜彩希と一緒にいたの」


 自分の交遊関係の問題を、母親のせいにするのはなんとも大人げない。それでも、そう思うのだ。――母親の言いつけがなければ、私は亜彩希と友人になんてなっていない。


「亜彩希と比べられて、恥ずかしい思いをしながら生きてきた。やっと、離れられるの。もういいでしょ? 私、十分頑張ってきたと思うよ、亜彩希の『親友』役」


 母は、小さくため息をついた。


「そっか。夏子はそう感じていたんだね。――ごめんね、気づかなくて」


 親に謝られるなんて。情けない。自分自身が、あまりに情けない。


「虚しくないの? 自分の子どもはいつも出来が悪くて、亜彩希ばっかり誉められて」

「全然そんなことない。亜彩希ちゃんはたしかに賢いけれど、夏子にだっていいところはたくさんある。亜彩希ちゃんが持っていない、特技がたくさんある」


 気休めにもならないような母の言葉に、私は無言で歯を食い縛った。

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