後日談3-貴女の一番



 私とすみれは二人で生きていくことは決めていても、二人だけで生きているわけではない。

 生きていれば人との関わりは生まれる。

 その中で私にとって特別な相手というのは何人か存在していて、その一人は早瀬だ。

 早瀬 雪乃。

 職場で珍しい同期であり、一番の友人でもあり、こういう言い方をするのはどうかと思うが、現在のところはすみれを含めてももっとも体を重ねた間柄。

 当然今はそんな関係ではないが、早瀬は私にとってある意味では最も特別な相手だ。

 そして、すみれにとっても早瀬は並々ならぬ感情を抱く相手だろう。

 私が心変わりすることはないと理解していても、「昔の女」とは見ている。

 同時に今の私にとってかけがえのない親友だとも。

 私の目から見れば特に二人の間に不穏な空気があるわけではないけど、人の心は目に見えるものではないしまた複雑で怪奇なものだ。

 出来れば仲良くして欲しくてもそれはあくまで私の願望でしかない。

 すみれが早瀬を、早瀬がすみれをどう思うかなどは私が関知できることではないのだ。


 ◆


 それは突然のことだった。

 夜も更けてきて、寝る前の団らんをしているところにチャイムがなった。

 人が訪ねてくる時間はとうに過ぎており、この時間にチャイムがなるだけでも物騒な話だが、一瞬びくついたすみれと違い私は別の意味で胸の鼓動を速めた。

(まさか……)

 普通であればこの時間に人が来るなどありえないが、私にはこの数年それなりに馴染みのあることで

「っ……」

 インターフォンを見ると予想通りの相手がいたことに心を重くする。

「文葉……?」

「早瀬」

 少し不安そうなすみれに訪ねて来た相手の名を告げると玄関へと向かいドアを開けた。

「文葉、泊めてー」

 真っ赤な顔をした早瀬は開口一番にそう言って私にもたれかかってきた。

「ちょ、っと」

 それも慣れてはいることなのだが、今は避けてもらいたいことだ。

「離れてよ」

「えー、いいじゃーん」

 アルコールの匂いと、湿度のある体温と、甘えるような声。

 それは私にとっては自然『だった』もので今は受け入れるべきでないもの。

「……いいから離れなさい」

 強引に引きはがすと、文句を言うかと思ってた早瀬は私の後ろの方に視線を送っていて。

「いらっしゃいませ」

「あー……そっかそっか」

「…?」

 思い出したかのように言ったそれにはどこか違和感があるも、

「そうだったそうだった。今は二人の愛の巣なんだよねー」

 次の瞬間には私のよく知る早瀬になっていて、何より私を挟んで交わされる言葉になんとも言えない気持ちになって一瞬前の早瀬を印象には残さなかった。

「文葉とりあえず上がってもらいなさいよ」

「あ……そうね」

 反射的に帰れと言いたい気持ちもあるけど、いきなり追い返すわけにもいかないわよね。

「ありがと」

(仲が悪いわけじゃないのよね)

 …私の立場だからこそ余計に気にしてしまうということだろうし、それが杞憂だとは思っているけど。

 それでも落ち着いた気分には到底なれなかった。


 ◆


 とりあえず早瀬を中に招き入れると、勝手知ったるなんとやらで寝室へと上がりこむ。

 この家は寝室が一番大きいから必然そうもなるだろうが、この部屋に三人となるのは初めてだし、何より寝室に来るのが当然という早瀬の行動が心を乱れさせる。

「文葉、水ちょうだい水―」

 すでに出来上がってる早瀬は私の心労など知ったことではないようだ。

「はい、どうぞ」

 といったのは私ではなくすみれ。

 座椅子に座る早瀬の前のテーブルにコップを置く。

「ありがとー」

「どういたしまして」

 すみれは少し離れた場所に座り、必要以上には口を開かず代わりに視線だけはしっかりと感じる。

(…気にしすぎとはわかってる、けど)

 元恋人、ではないけど身体の関係を持った相手と恋人が同じ部屋にいるのだから。

 しかもすみれは嫉妬深いし、これで平静を保てというのも無理な話。

「で、何しに来たのよ」

 おとなしく水を飲んでいた早瀬に問う。

「だから泊りに来たっていってんじゃん」

「あのねぇ……」

「別のところで泊まる予定だったんだけど予定が変わっちゃったんだよねー」

 数か月前まではよく聞いていた文句だし、その時は追い返すことはなく早瀬と朝を迎えていたが。

 今はまるで状況が違う。

 すみれは私と早瀬の関係をあくまで昔として認識していたはずだけど、こんな風に当たり前のように言われてはあらぬ誤解を招きかねないし……そもそもすみれの中では誤解にすらならないかもしれない。

「いいじゃない、泊っていってもらえば」

 恐る恐る視線を送ろうとしていた私の耳には意外な言葉が届く。

「こんな時間に追い返すわけにもいかないでしょ」

「そう、ね」

 道理だ。

 すみれの言う通りに「泊っていきなさいな」と告げると早瀬はにへらと締まりのない笑いをする。

「やー、理解あるお嫁さんでよかったよかった」

「文葉の大切な人を大切にするくらいの度量はあるわよ」

「………」

 やはり私を挟んでの会話はなんとなく落ち着かない。

「あ、そーだ。文葉お風呂借りていい」

「やめときなさいよ。あんた酔ってるんだから」

「けど、汗掻いちゃって気持ち悪いんだもん。心配なら文葉が一緒に入ってよ」

 ……これはまだ気にするほどの発言ではなくて、でもこの場でうまく取り繕うべきものでもあった。

「前はこういう時いつも一緒だったじゃん。前みたいに洗いっこしようよー」

(…………)

 頭を抱えたくなるわ。

 すみれにも過去私たちがそういうことをしていた認識くらいはあるかもしれないけど。

 今度こそ視線を送ってしまって。それは多分悪手だ。

「いいんじゃないの」

 私の心配とは裏腹にすみれはそう言ってくれた。

「洗いっこ、はともかく、別に一緒にお風呂入ったからって間違いが起きるわけでもないでしょ」

「それは、当然だけど…」

「汗かいてるのが気分悪いのもわかるし、こんな状態でお風呂に一人で入らせるわけにもいかないじゃない」

 さっきの泊りを許可した時と同様に正論だ。

 断ることの方がすみれの私への信頼を裏切るような気がして、

「……まぁ、そうね、一緒に入ってあげるわよ」

 そう口にするしかなかった。


 ◆


 これは介護だ。

 酩酊してる早瀬がどう思ってるかはさておき、私はそう思うことにしたし、すみれも私と同じ認識だからこそ許してくれているんだろう。

 介護だと思えば、そこまで気にすることではない。

 二人用で入るにはせまい浴槽では必然距離が近くなるが、早瀬の裸なんて見慣れているし、先ほどいったようにこれは介護なのだから特段意識をする必要はない。

 ……のに落ち着かないのは、やはりすみれ以外に肌を晒しているという状況だろう。

(…にしても、すみれが許可するなんてね)

 こういうことにはもっとうるさいかと思っていた。

 確かに前と今ではすみれの早瀬への感情は異なっているだろう。

 以前は私と早瀬の関係のことに敏感で、見当はずれではあるが警戒すべき相手と認識をしていた感じがある。

 今は私のすみれへの気持ちが確かだということはわかっているし、嫉妬する必要はない。

(って思ってくれてる、ってことよね?)

 そうでもなければ泊めるのは人道上ともかく、一緒にお風呂なんて許しはしないだろう。

 腑に落ちないすみれの態度に理由をつけ一人得心する。

 ただ、それで今の問題が解決したわけではない。

「文葉ってばー、聞いてんのー」

 狭い浴槽の中体を押し付けるようにして抱き着いてくる早瀬。

 腕といわず胸の柔らかさまで感じさせてくれる。

 現状ではすみれよりもよく知る、肌。体温。感触。

 これで動揺するほど人間が出来てないことはないけど。

「文葉―、洗いっこしようよー」

 声量も抑えずにこんなことを言われるのは頭を抱えるわよ。

「身体なら洗ったでしょうが」

「じゃなくて、洗いっこしたいのー」

 ……すみれのことを意識していないのか昔みたいなことを言ってくる。

 そりゃあ昔は若かったから、「洗いっこ」も含めて様々なこともしたが今はそんな要求にこたえるわけはなく、やかましい早瀬を無視することにする。

「ちょっと文葉ってばー」

「………」

「ねーえー」

「…………」

 反応をみせればそれだけ余計に早瀬も反発するのはわかっていて、黙ったまま耐える。

「したなんてこと黙っててあげるからさー」

「…………」

 いかがわしい言い方をやめてほしい。

「……っ」

「……ちょ、っと」

 抱き着いていた腕に痛みを感じるほどに力を込められ、さすがに抗議しようとすると

「文葉の馬鹿」

 シンプルな罵倒をして、早瀬は私から離れていった。

 いじけたような姿には多少は気になったもののその後はおとなしくて、後ろ暗いことを起こすことはなく入浴を終えることはできた。

 着替えは普通に早瀬の分は置いてあって、それを着てもらったのだけど、よく考えるとこれもまずいかしら。

(って、だから気にしすぎよ)

 私の方こそ振り回されてどうするんだが。

 どうにか心を整え、寝室へと戻るとそこはお風呂に行く前とは少し光景が異なる。

「布団、敷いといたわ」

「懐かしいね、その布団。最初のころは文葉のとこ泊る時は使ってたんだよねー」

(……平常心、平常心)

「そうね」

 ある時期以降はベッドで一緒に寝ることがほとんどだったからわざわざ早瀬のために買ってやったというのにそれほど使う機会がなかった。

 それをわざわざ口にするわけはないが。

「あんたもう寝ちゃいなさいよ」

「えー、まだ夜はこれからなのにぃ」

「抱き着くな。酔ってるやつの相手なんてしてらんないわよ」

 甘ったるい声にも不意の抱擁にも取り乱すことなく告げる。

 ただ酔った早瀬は面倒で素直に言うことを聞いてはくれないだろうという予感はあったのだが。

「つまんないの。ま、いいけどさ」

 意外にもあっさりと布団へと入っていった。

「じゃ、おやすみー」

「…お、やすみ」

「おやすみなさい」

「…………」

 本当に布団へ入ってしまった早瀬にすみれも予想外だったのかきょとんと見やるも、やっぱりつまんないなどと言って起きてくることもなくおとなしく横になる早瀬。

「あ、えーと……すみれも疲れただろうしお茶でも淹れる?」

「別に私は疲れてないわよ。うるさくしても悪いし、私もお風呂入るから文葉は先に寝てていいわよ」

 表情を窺っても特に大きな感情が抱いているようには見えず、やはり自分の考えすぎだろうと胸を撫で下ろす。

「そうするわ。こっちはこいつの相手で疲れたし」

 なんだかんだ日付はもう回っているし、起こして面倒なことになるのもごめんだ。

(早瀬が来た時はどうなることかとも思ったけど……)

 いらないことはいくらかは話されはしたものの、すみれもそこまで気にしてない様子だし独り相撲で無駄に疲れただけね。

 まぁ平和に終わるのならそれに越したことはないと、私もベッドに入っていく。

(早瀬ではないけど、懐かしい光景ね)

 すみれがお風呂へと向かった後、ベッドから布団で眠る早瀬を眺めるとそんなことを思う。

 最初のころは別々に寝ていたのに、一時期からは一緒に寝るのが当たり前になっていた。

 関係を終えてからも泊る時には面倒だからって大抵一緒に寝ていたし。

 けど、今はこれが当たり前にしなければいけない距離。

 未練とかそういう事ではなく、「この距離」になっていることがなんとも不思議な気分だ。

 すみれとこうなったとはいえ、過去の私は恋人を作るつもりはなかったしそれは早瀬も同じだと思ってたから。

 何年か後を具体的に想像してたわけではないけど、すみれと出会うまで……いや、すみれへの気持ちを自覚するまでは早瀬との関係はずるずると続くものだと思っていた。

 月並みだけれど人生何が起きるかわからないものだ。

「なんだ、起きてたの」

 郷愁にも似た気持ちで早瀬を見ていた私は、寝室へと戻ってきたすみれに声をかけられる。

「すみれを待たずに寝るのも悪いかと思って」

 軽口をたたく私にすみれはそうと答えてベッドに腰掛ける。

 それに合わせるかのように私も体を起こしてすみれの隣に移った。

「今日は悪かったわね」

「何が?」

「何がって……」

 説明しようと思いとどまる。

 早瀬が訪ねて来たのは間違いなく私が原因だけど、何か直接すみれに迷惑が掛かったわけでもないのに私が謝るのはおそらく違う。

 私と早瀬は「他人」なのだから。

「やっぱり何でもない」

「それでいいのよ」

 すみれのことを子供と思ってきたけど、今回のことに関してはすみれの方が道理をわきまえていた。

 涼しい顔をしてくれるのはそれだけすみれの愛が深い証拠だと感じ入りすみれに向けて手を伸ばす。

「何よ、もう」

「何となく触りたくなったの」

 誤解を招くような会話だが、触っているのは髪だ。

 丁寧に手入れされた髪、しっかりと乾いたそれに触れるのが好き。一本一本が繊細で、指の間にかかる触感が心地いい。

 お風呂上りにこうして髪に触れるのが好きだ。

 というよりすみれの髪が好きだ。

 見た目も、触れることも、香りも……ベッドに散らばる光景も。

 今はそのすべてを堪能するわけにはいかず、

「すみれ、ありがとう」

 謝罪の代わり礼を述べて軽い口づけで感謝を伝えることにした。

「…人前で何考えてるのよ」

 こんなことで恥ずかしがる彼女をやはり可愛らしいと再確認しドタバタとした夜を終えるのだった。


 ◆


 朝は意外なことが起きていた。

 早瀬は泥酔していたし、昔からこういう時は昼近くまで寝てその後もベッドをなかなか抜け出してこなかったのに今日は私たちより早く起きたかと思えば、朝食までこしらえている始末だ。

「珍しいこともあるのね」

「昨日は迷惑かけちゃったからねー。まぁ、よくは覚えてないんだけど」

「あんたは昔からそうだものね」

 早瀬の用意した朝食を取りながら三人で歓談。

 この三人で朝食を囲むなんて想像もできなかったことだ。

「すみれちゃんもごめんねー。二人で住んでるの忘れてたわけじゃないけど、つい癖っていうか」

「別に気にしてないわ。こうしてご飯も作ってもらったし」

「あはは、ありがと」

 この二人が会話には余計なことを考えてしまいがちだけど、それも寝る前のすみれと話したおかげもあってそれほどは気にならない。

「ってか、あれだよね。この部屋にある着替えとか引き取った方がいいよねー」

「別に少しくらいあったっていいんじゃない? 大体あんたここに来るとき着替えがあるとか気にしてないでしょ」

「ま、そりゃそうなんだけど」

「…いいんじゃないの? せっかくだし今度は普通に泊りに来たら? 文葉の面白い話でも聞かせてもらいたいし」

「あは、なるほど」

 邪な目線が私へと送られてくる。

 こいつの口からは語って欲しくないことも多いが……その程度はわきまえていると思いたいものだ。

「うん、じゃお言葉に甘えて今度来るよ」

「今度は手土産の一つくらいは用意しなさいよ」

「はいはい。文葉の好きなお酒でも持ってきますよっと」

 次回への約束もしてしまったが、まぁすみれが気にしないようであればこの三人で意味なく時間を過ごすのも悪くはないわね。

人の心を深く見れずにそう考えている私だった。


 ◆


 早瀬は午後には用があるなどと言って朝食の後はさっさと帰ってしまった。

 後で今回の礼はすると言っていたのはいいけど、

(ったく、ほんとに騒がしいやつね)」

 まぁ、結果としては心配したようなことは起きなかったし、むしろすみれの気持ちの強さを改めて知ることが出来たからよかったと思うべきかしら。

 そんなことを考えながら、洗い物をしていると。

「…文葉」

 予想外の衝撃が私を襲った。

 それは別にいきなりすみれに背後から抱きしめられたからというわけじゃなくて。

「……私、上手くできてた?」

 すみれの声色に深刻なものを感じたからだ。

 お腹に腕を回し私を抱く力には通常ではないものを感じる。

「すみれ……?」

 鈍い私は何を言ってるのかわからず、とりあえず洗い物をする手を止めて水を切る。

「嫌な顔、してなかった? 変なこと言ってなかった?」

「別に、変なことなんて……」

 急に態度の変わったすみれにきょとんとしたものの、その奥に隠れている意味を察する。

「もしかして、やっぱり妬いてたの?」

「……私が嫉妬深いなんて知ってるでしょ」

「それは、まぁ……」

 知ってる。だからこそ早瀬が来てからのすみれに違和感を持ちっぱなしだったのだから。

「何なのよ、当たり前みたいに来て。お風呂一緒って何? 洗いっこってどういうことよ。というか、いつも一緒に寝てたの? なんでこの部屋のことあんなに知ってるの」

昨夜からため込んでいたであろう心の裡。私がまずいと思ったようにすみれが気にしないわけがなかった。

「気を使わせちゃったのね」

「使うわよ。昔のことは気に食わないけど、昔のことだし。今は文葉の親友なんでしょ。私だって仕事じゃ世話になってるし、邪険には出来ないわよ」

「なるほど」

 色々得心がいった私はすみれの手をほどくと正面に向き合い今度は私から抱きしめた。

「物分かりがよすぎるとは思ってたのよね」

「なら気づきなさいよ」

「悪かったわ。ごめん」

 演技に騙されたともいえるし、私こそ早瀬がいて冷静ではなかった。

 言い訳はできるけど、彼女に気を使わせていたことにも気づかないのは私が悪い。

「ふふ…」

 謝った舌の根の乾かぬ内に笑いを零して背中をなでる。

 好きな髪の感触を手に感じながら。

「何笑ってんのよ」

「すみれは可愛いなと思っただけよ」

「なにそれ。どうせ子供だって思ってんでしょ」

 あらら。

 拗ねてるわね。これは早瀬のことだけじゃなくて、日ごろの私の接し方のほうに問題があるんでしょうけど。

「今回はお互い様よ。私だってあんたが嫉妬してるの気づかなかったんだし。まぁ、早瀬がいなくなった瞬間に甘えてくるなんて子供っぽいっていうより、可愛いとしか言えないけど」

「だから文葉は一言多いのよ」

 やれやれ、好意を伝えてるっていうのに。こういうところがほんと面倒で可愛らしい。

(さて……どうすべきかしら)

 恋人を抱き、感触と香りを堪能しながら考える。

 結果的に我慢させてしまったのだし、機嫌を取るって言い方は正しくないでしょうけど、すみれこそ私の大切な恋人なんだとわかってもらうために何かしなきゃ。

(何か……)

 といってもぱっとは思いつかない

 こうして抱きしめるのも、例えばこの後キスをするのも恋人としての愛を伝えることには違いない。

 けど、それをするのも短絡的というかすみれの機嫌を直すものではない気がする。

「……私としてないこと、そんなにしてるの?」

 うまい考えが思い浮かばない私の耳に拗ねた声色が届く。

「え?」

「……一緒にお風呂とか、洗いっこだけじゃないんでしょ。私としてないこと」

「それは、まぁ」

 わざわざ改めて言うことではないけど「そういう関係」だったのだから。

「全部しなさいよ。私がしてないなんて負けてるみたいで嫌」

「全部って……」

 すみれは言っている意味を分かっていないわけではないはずだ。広義では性的な意味を含むということを理解しているだろう。

(でも、すみれがそれを覚悟してたとしても)

 早瀬と関係を持っていたのはまだ数年前のことだ。今思い出したら恥ずかしくてとてもできないようなことまで赤裸々に語るわけにはいかない。

 そもそも「昔の女」としたことなんて具体的に知りたくもないでしょうに。

「文葉の一番は全部私じゃないと嫌。キスの数もエッチの数も、一緒にお風呂に入った数も、洗いっこも全部」

(この強欲さには関心するわ)

 でも、実際に早瀬としたことなんて白状した日には怒られるか、罵られるか、引かれるかだというのは想像がつく。

(なんとか回避する方向にもっていかないと)

「それじゃあ、とりあえず洗いっこでもする?」

 ひとまず目先の話に対応しようとそう口にすると同時に、抱いていた手で背中から下へとなぞっていく。柔らかなその感触を手でしっかりと感じるように。

「ちょ、っと…っ」

 焦る様子のすみれ。

 さっきまであんなこと言ってたくせに、いざ迫られるとしおらしくなるのはすみれらしい。

「して欲しいんでしょ」

「別に今すぐだなんて言ってないわよ。何考えてるのよ、朝っぱらから」

 すみれの言うことはもっとも。早瀬としていたことをする、とこんな朝から盛んになるということは別だ。

 ただ、私としては別の目的があるわけで。

「早瀬とは朝にしたこともあるんだけどな」

 すみれの心を刺激するに品のない手段を使った。

「早瀬との差、埋めたいんでしょ?」

「…文葉…っ」

 挑発するように腰回りに指を這わせると怒りと羞恥を混ぜたような顔で瞳には力を籠めにらみつけてくる。

(睨んでるつもりでしょうけど)

 照れがあるせいで、むしろかわいく見えてしまうわね。

 もっとからかいたい衝動には駆られるけど、あまりするとすみれの中の私の人間像がどんどん悪くなる気もするし。

「文葉がしたいなら……」

 私が次の言葉を述べる前にすみれはそう言って、それは耳には届いていたのに

「ま、朝からってのはさすがに冗談よ」

 私も口にすることを決めていて、それをいいすみれから離れてしまう。

(…タイミング最悪ね)

「っ~」

 冗談、という言葉を使ったのもよろしくはない。すみれは私を受け入れようとしてしたのにその覚悟をないがしろにしてしまうような発言だった。

「ほんっと、あんたってデリカシーないわよね」

「今のは本意じゃないけど悪かったわよ。要は早瀬と比べるとこういうことも起きるってこと。だからそんなこと気にしないで、私が今すみれを愛してるってことで満足しなさいよ」

「そんなのわかってるけど、納得したくないのよ」

 そう主張するすみれの気持ちもわからないわけではないが、早瀬としたこと、なんてこれからも避けたいことで。

「なら……やっぱり今からお風呂行く?」

 つい品のない提案で逃げようとする。

 もちろん、それはすみれに断らせたいからだったというのに。

「…文葉がしたいなら、してあげるわよ」

「っ……」

「本気よ。さっきの嘘じゃないんだから」

「さっき…?」

「だから、なんでも私が一番じゃないと嫌ってことよ。キスでもエッチでも、なんでも」

 強い意志を感じさせる瞳。

 端正な顔に凛々しさをにじませるのは反則でつい目を奪わる。

(これがすみれの愛の形なのよね)

 恥ずかしさとかそういう感情よりも、あらゆることで私の一番でありたいという感情が勝る。

 それを解した上で、すみれの覚悟に応えないだなんて選択肢はありえなく。

「わかったわよ。なんでもすみれを一番にするわ」

 腰と背中に回していた手に力を込め、ダンスでもしてるかのようにキザっぽく抱き寄せる。

 表情もカッコつけたつもりだけど。

(…できる範囲で、ね)

 すみれを愛しているとしても、若い故に出来ていたことの全てはやはり明かせないなと思ってしまうずるい私だった。


 ◆


「あーあ」

 家に帰った私はベッドに寝そべり天井を見上げる。

「……馬鹿なことしたなぁ」

 わずか十二時間ほど前の行為に対して呟く。

 文葉のところに行ったのはうっかりだった。

 いつもの癖。

 予定が崩れていつもみたいに文葉に慰めてもらおうってつい文葉のところに行ってしまった。

 それは私の当たり前。

 何かあったら文葉のところに行って、愚痴に付き合ってもらったり……たまに慰めてもらったり。

 文葉との「前の関係」が終わってからもそうすることが自然だった。

 けど、それはもうしてはいけないことになってたんだ。

「っていうか、多分私は嫌な奴だったな」

 酔っていたから記憶はあいまいなところもあるけど、なんかマウントをとってたような記憶がある。

 文葉が慌ててくれたのは愉快だし、いい気味だったけど。

「嫌な奴っていうより……」

 その先が続けられない。心の中には形作っているのにそれを明確な言葉にすることを拒んでいる。

「はぁ……ほんと嫌になる」

 こんな日が来るとは思わなかった。

「……ラブラブだったよなぁ……」

 本当は寝付けずに聞いていた会話。それを思い出し心に冷たい風を吹かせる。

 文葉は私の避難所で、居場所だった。

 当たり前にあるものでなくなるなんて思ってもいなかった。

 それがとっくになくなっていたのに、昨日まで気付いてなかった。

 あまりに滑稽で笑ってしまう。

「…笑えないけど」

 自分の声はどこまでも沈んでいて、頭の中は嫌なことばかりで埋め尽くされる。

「文葉に彼女ができたのはいいことって思ってたんだけどなぁ」

 でも、文葉に恋人ができるってことはこういうことだったんだ。

 考えれば当然のことなのにすっぽりとそのことが抜け落ちていた。

 失った後の自分の心の動きも。

「あはは、っと……」

 胸の痛みの意味。

 その理由を考えたくなくて、私は逃避するように目を閉じた。

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