第2話 ワンピース


 初夏だというのにまるで真夏のように暑かったその日、僕は彼女に一目惚れをした。


 前期試験も終わり、あとは数日後に始まる長い夏休みを待つだけとなったその日、僕はふらりとキャンパスを訪れた。別に講義があったわけでもなんでもない。ほんとうに、ただなんとなくの行動だった。強いて理由を挙げるならば第二食堂の冷やし中華を食べに、といったところだが、まあそんなものは付け足しに過ぎない。わざわざ食べに行きたくなるほど美味いワケでもないし。

 実質的にはもう休みに入っていると言っても過言ではないキャンパスにいつもの賑わいはなく、どこかひっそりとしている。遠くからはブラスバンド部が練習しているらしい調子の外れた音が聞こえてきていた。

「あち……」

 真上から照りつける太陽を恨みのこもった眼差しで睨みつけ、視線を元に戻す。厳しい陽光の残像である緑色の中、少し先に日傘を差した細身のシルエットが浮かび上がる。その姿を脳がはっきりと認識した瞬間、まるで時が止まったような気がした。


 整った目鼻立ちの彼女はスラリとした肢体をノースリーブのワンピースに包み、まるで春風の中を歩いているように涼やかな表情を浮かべていた。黒髪をまとめたポニーテールと剥き出しになったうなじ。真っ白な二の腕と綺麗に処理された腋。そして心のうちまで見透かされそうな澄んだ眼差し。清楚さと色気が絶妙に同居した彼女とすれ違った瞬間、全身の血液が暴走したかと思うような動悸に襲われて僕は胸を押さえずにはいられなかった。息苦しさと体温上昇は、決して熱中症のせいじゃない。

 臆面もなく言い切ろう。その瞬間、僕は恋に落ちたのだ。


 その後の迅速な行動は我ながら賞賛されるに値するものだったと思う。乏しい人脈を総動員して彼女……菅生愛美さんの情報を掻き集め、友人の友人の知人というコースアウトギリギリのルートを辿って合コンをセッティング。周りの人からはなり振り構わぬ姿に呆れられたりもしたが。どうにかこうにか彼女との接点を作り上げることができた。まったく驚くしかない、僕にこんな行動力があったなんて!

 そんな僕の暴走気味な一途さが、どうやら彼女の目には好意的に映ってくれたらしい。短いスパンでのデート数回を経て、僕たちは晴れて交際することになったのだ。


 愛美さん、いや愛美は最高の女性だった。見た目だけではない。気立ては良く、うるさ過ぎない程度に明るくて料理も上手い。そしてここだけの話、程よくエッチでベッドの中でもこの上ない満足を与えてくれた。

 だが、しかし……彼女に関しては一つだけ不可解な点があった。いや、それが不満だとかそこだけは許せないとかという話ではない。僕からすれば愛美は非の打ち所がないほど出来た彼女だし、そんな些細なことで評価を下げたりしたら天罰が下るだろう。

 ただ……ただただ不思議だったのだ。

 ……どうして愛美は、いつもワンピースしか着ないのだろう?


「ああ、それは他の服が似合わないからですよ」

 愛美は笑いながら、事もなげにそう言った。ワンピースしか似合わない? いやいやいや、ないない、それはない。モデル顔負けのスタイルと愛らしく整った顔立ちの持ち主である愛美に似合わない服なんて、探すほうが難しいというものだ。

「そんなことありませんよ。他の服はどうもしっくりこないといいますか……何かズレてるような気がするんですよね」

 そういう愛美の部屋のクローゼットにはワンピースばかりがズラリとならんでいる。部屋着もユニクロのゆったりとしたワンピース。この夏一緒にプールに行くために買った水着もワンピース……いくらなんでも、これはちょっと異常なんじゃないか?

 もちろん、彼氏といえど愛美の趣味についてとやかく言う資格があるわけではない。それでも、たまには違う装いを見てみたいと思うのは自然な感情ではなかろうか。水着だってワンピースより……いや! 違うから! 決して露出の多いビキニ姿を見たいとかポロリを期待しているとかそんなんじゃなくて!

 ……とにかく、僕はワンピース以外の服を着た愛美を見てみたくて仕方がないのだ。どうしても嫌だというのならやむを得ない、少しばかり強引な手段を取らせてもらおう。


 そんなわけで翌日、僕は貯めたアルバイト代を握りしめて駅前のファッションビルに向かった。

 衣類などユニクロかしまむらで済ましてしまう僕にとって、華やかな若さのエネルギーに満ちるこの空間にはアウェー感しかない。しかし、他ならぬ愛美のためならば艱難辛苦もなんのその。ズンズンとレディスフロアを突き進む僕はきっと、確固たる決意を秘めた表情を浮かべていたはずだ。

 グルリとフロアを一周し、よく分からないながらもなんとなく良さげな店に突入する。そんな僕の勢いにちょっと引き気味だった店員さんも事情を話せば納得してくれて丁寧に応対してくれた。スマートフォンで撮った彼女の画像を見てもらいながら愛美に似合いそうな、それでいてこれまでの清楚なワンピースとは全く異なるイメージの服を一時間半もかけて一緒に選んでくれた店員さんは、僕が会計を済ませて店を出る頃にはかなり疲れた表情を浮かべていた。


 翌日、僕は早速愛美の部屋に向かった。オートロック付きの1LDKマンションはほとんどの住人が若い女性であるせいか、建物内に入るだけでなんだから良い匂いがするような気がする。

 とっくに顔見知りになった管理人に会釈しながらエレベーターで三階へと上がる僕の手には昨日服を選んだショップの紙袋。一刻も早くこれを着た愛美の姿を見てみたいというワクワク感と、もし気に入られなかったら……という不安感に「俺たち付き合ってるんだなぁ」と実感が改めて湧いてきた。嗚呼、これぞ青春!


「おはようございます」

 水色ワンピース姿の愛美は笑顔で僕を迎えてくれた。部屋に入るなり早速僕が差し出した紙袋の中を覗き込んだ愛美は「ええっ⁉︎」と驚いて両手で口元を押さえる。

「プレゼント……よかったら、着てみて」

 努めてクールを装う僕だったが、正直心臓はバクバクいっている。

「あの、でもコレ……ワンピースじゃないですよね……私に、似合いますか?」

「いや、似合うから! 絶対に!」

 力説する僕の勢いに押されたのか、とうとう愛美も覚悟を決めたようだ。

「じゃあ、着てみますね……あの、おかしくても幻滅しませんか?」

 するもんか……するワケがない。

「ズレてたりしても、笑わないでくださいね」

 笑わない笑わない。そんなことになるはずがない。

「じゃあ……着替えてみますから……ちょっと後ろを向いてていただいていいですか?」

 大人しくその言葉に従い、僕は後ろを向いた。衣擦れの音に想像力を掻き立てられ、もういろいろと爆発寸前だ。


「もう、いいですよ」

 という言葉に振り返ると、そこにはワイルドな女神が立っていた。大胆に肩と背中の空いた黒のブラウスとデニムのダメージスカートは今までにない、新たな愛美の魅力と色香を存分に引き出している。

「あの……どうですか?」

 ポカンと口を開けたまま見惚れる僕から何の言葉もなかったので不安になったのか、おずおずと愛美が訊いてきた。だけど、この感動と美を表現する言葉が出てこない。僕はブンブンと首を縦に振った。

「変じゃありません?」

 もちろん変であろうはずがない。今度は首を左右にブンブン。

「何だか、ズレてるとかないですか?」

 勿論、そんなはずは……再度首を横に振りかけて、僕は思わず目を見開いた。ズレ……ている? ズズッ、と向かって左側に……何がって? 愛美の上半身が!

 それはまるで、マジックショーを見ているかのような光景だった。美女が入った箱の上下をスライドさせて身体を分割するアレだ。

 だけど今、目の前で起きているコトにトリックなどはない。あろうはずがない。

「キャッ!」

 短い悲鳴と共に、愛美の上半身がカーペットの床にドスンと落下する。目の前に立っているのは、デニムスカートを穿いたままの下半身。何なんだ……これはいったい何なんだ!

「ほら……だから言ったんですよ……ズレるって」

 僕の足元で、まるで腕立て伏せをするかのように両手を突いて上半身だけの愛美が顔を上げる。

「せっかく洋服を買っていただいたのに……申し訳ありません。あの、着替えるので、元に戻すの、手伝っていただけませんか?」

 僕を見上げながら、彼女はいつもの愛らしい笑みを浮かべる。


 僕は、絶叫しながら愛美の部屋を飛び出した。


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