Bloken Pieces

蒼 隼大

第1話 壁

 家の近所にあった、工務店の資材置き場が子供の頃の遊び場だった。コンクリートブロックの塀に囲まれたその空間は今ではとても狭く見えるのだが、当時のボクたちが遊ぶには充分なスペースだった。

 ボクとヒロキとサエ、幼稚園の頃から一緒だった幼馴染の三人は毎日のようにここに集まって遊び、笑い、イヤなことがあった時は積まれた材木の陰に蹲って泣いた。当然、私有地なので本来なら立ち入り禁止だったのだろうが、工務店の社長はなにも言わないどころか、時々アイスやジュースをくれたりもした。

 中学生になると外で走り回って遊んだりしなくなり、三人で集まるようなことはなくなったが、それでもボクはよくこの場所に来てボンヤリと一人の時間を過ごすことがあった。


 初めて『壁』が語りかけてきたのは、朝からつまらないことで親と口論になってしまった日のことだった。モヤモヤを引きずったまま家に帰るのが億劫で、この資材置き場に積まれた材木に座ってぼうっと座っているといきなり

「謝りなよ」

 と話しかけられたのだ。

 突然のことで訳がわからず、慌てて辺りを見回していたが誰もいない。気のせいであったかと思ったその時、また

「ここだよ、ここ」

 と声がした。それは子供の頃、よくボールを投げて遊んでいた目の前のコンクリートブロックから聞こえたような気がしたが、まさかそんなことが。しかし今まで気がつかなかったのだが、よく見てみると長い年月の間に増えた緑色のコケがちょうど人の顔のように見える。いや、だからと言ってそれが喋るなんてことはあり得ないのだが。

「まさか、冗談だろ?」

「冗談なんかじゃないさ。オレはここにいる……オマエが子供の頃から、ずっとな」

 こうなるともう、唖然とするしかなかった。壁が喋っているだって? ボクの頭はどうかしてしまったのだろうか?

「オ……オマエは何だ? 何なんだよ!」

「オレ? オレはただの壁さ。オマエたちの投げてきたボールを跳ね返すのが仕事だったんだが……今は違うモノを跳ね返してる」

「違うモノ?」

「オマエの感情さ」

 コケで作られた顔がニヤリと笑った……ように見えたのはきっと気のせいだろう。

「オマエ、悪かったと思ってるんだろう? 謝りたいと思ってるんだろう? だったら、素直にそうするべきだ」

 コイツは何を言っている? どうしてオレのことが分かってる? 俺は今朝のことなどなにも言ってやしないのに。

「いいや、何も知らねぇし、分かってもいねえよ」

 壁はサラリと言い放った。

「オレは壁、ただの壁だ。さっきも言ったが、オレはぶつけられたものを跳ね返すことしかできない」

 投げたボールが、跳ね返って戻ってくる。

「オマエに何か聞こえているとすれば、それはオマエ自身の声だ。オマエがやりたいと思っていることを素直にやれと言っている、ただそれだけだ」


 それから、ボクは悩み事があるたびに壁に相談するようになった。人が悩む時、その答えは既に自分の中にあると言われるが、壁は的確に、ボクの中にある答えを拾い出して投げ返してくれた。もちろんそれで全てが上手くいくわけではなかったが、壁と話すことで気持ちの整理がつきやすくなり、以前よりも前向きに考えることができるようになったのは確かだ。

 そして高校生になってすぐ、長年ボクが抱え続けていたある問題が壁との対話によって解決することになった。

 サエに対する恋愛感情、である。

 ボクはずっと、サエのことが好きだった。いや、つい最近までそれが恋愛感情なのか幼馴染であるが故の愛着なのか分かっていなかったのだが、壁はいとも容易くボクの縺れた気持ちをほぐして本心を曝け出してくれた。それだけではなく、その気持ちを抱えたボクがどう行動するべきなのかも示唆してくれたのだ。

 壁に背中を押されたボクの、勇気を振り絞った告白をサエははにかんだ笑顔で受け入れてくれた。ずっと幼馴染だった女の子がその瞬間から恋人に変わる、という妙にくすぐったく不思議な感覚に有頂天になったボクは、思わず壁にお礼を言いに走ったものだった。

 だけど、気がかりなことが一つあった。ボクもサエも、付き合い始めたことをヒロキに話すことができなかったのだ。

「ヒロキくん……私たちが付き合い始めたこと知ったら、変に気を使って離れていっちゃったりしないかなぁ……」

 いつも陽気なサエが珍しく表情を曇らせるが、彼女の不安はボクが懸念しているところと少しばかりポイントがズレているようだ。

 十年にも渡る長い付き合いになるが、どちらかといえばクールなタイプで自分を語ろうとしないヒロキが誰かを好きになった、なんて話は聞いたことがない。自分がサエと付き合うようになるまで気にしたことはなかったが、もしかしたらヒロキもサエのことが好きなんじゃないのか? もしもそうだとしたら、ヒロキに何の相談もなくサエに告白してしまったボクは抜け駆けをしてしまったことになる……?

 さんざん思い悩んだボクが足を向けたのは、当然あの資材置き場だった。


「そりゃ、正直に言うしかないだろう」

 事もなげに壁はそう言った。

「ヒロキがどういう感情を抱いているにしろ、聞かされるのが遅くなればなるほど良い気持ちはしないだろうな。だったら、早く本当のことを言ってやるべきだろうよ」

「それはそうなんだけど……」

「ふむ、ヒロキとの関係が壊れることを恐れている、というわけか」

 ボクが頷くと壁は大きくため息をついた。

「まあ、ヒロキとの関係を維持する方法がないわけでもないがな」

「分かってるよ…々サエのことを諦めろ、っていうんだろ」

 サエと付き合い始めた事実をなかったこととし、ヒロキには何も伝えなければボクとヒロキの関係は壊れることはない。だけどそんなことをすれば今度はサエとの関係が悪化、引いては三人の関係そのものが崩壊してしまうだろう。

「できるわけないよ、そんなこと」

「だよな。じゃあどっちにしろ関係は変わらざるを得ないってことじゃないか。分かっただろ? オマエはもう後に引けないトコロにいるんだよ」

 いけしゃあしゃあと、まるで他人事のように話す壁にボクは初めて怒りを覚えた。そもそもサエに告白するよう促したのはこの壁じゃないか。何を今更……

「勘違いするなよ、オレがオマエの本心を跳ね返すことしかできないただの壁だってことはとっくに知ってるだろ? オレはとっくに結論が出ているのに踏み込めないオマエの躊躇を取り払ってやってるだけなんだぜ」

「……だから、後のことはボクの自己責任だと?」

「自分の行為に責任を持つのは当たり前だろ?」


 腹は立ったが、少し離れて考えてみれば壁の言うことは間違ってはいない。ヒロキとの関係を取るかサエとの関係を取るか、なんてレベルの話ではない。ボクがサエとの関係に踏み込んだことで、もう全てが今まで通りというわけにはいかなくなってしまったのだ。

 こうなればもう、ヒロキに打ち明けるしかない。それはもう分かっていたが、ボクはなかなか実行に移すができず、ズルズルと後ろめたい日々だけが過ぎていった。

 そして、そんな優柔不断なボクの態度が予想もしていなかった最悪の事態を招くことになった。


 サエが自ら命を絶ったのだ。


 詳しいことは、後になって聞かされた。

 塾からの帰り道、よりにもよってあの資材置き場に連れ込まれたサエは何者かに乱暴された。身も心もボロボロにされたサエを助け出してくれたのはあの工務店の社長だったらしい。

 病院に搬送されて診察を受けたサエは、通報によって警察が駆けつける前にわずかな隙を突いて姿を眩まし、そのまま病院の屋上から身を投げた。犯人については「分からない」「覚えていない」で通していたらしく、何も分からずじまいだったそうだ。

 それからのことは、正直よく覚えていない。ただただ毎日をぼうっと過ごしていたような気がするし、何かのキッカケで荒れて暴れまわったような気もする。サエの葬儀で号泣する自分を遠くから眺めていた記憶は、果たして夢だったのか現実だったのか。

 それでも、人間というのは意外と丈夫なものらしい。二ヶ月もすると徐々に地に足を付ける感覚が戻ってきて、ようやく飯を食えるようにもなった。しかし回復したらしたでそこにはサエを失った日々という辛い現実が待っている。何もかもやる気を喪ったボクは部屋に引きこもるようになり、学校も休みがちになっていった。


 あの資材置き場に来い……サエの葬儀以来ほとんど顔を合わせていなかったヒロキに呼び出されたのはそんなある日のことだった。当然、ボクは断った。サエが命を絶つキッカケを作った現場になんて行きたくはない。行けば、本当に自分が壊れてしまうかもしれない。

 それでも、最終的にボクは呼び出しに乗ることにした。理由は自分でもよく分からないが、あるいはボクに唯一残されたヒロキとの絆を確かめたかったからなのかもしれない。

 ヒロキが指定したのは真夜中だった。いつまでも汗ばむような蒸し暑さの残る夜の町を歩いて、ボクはあの資材置き場に向かった。


「よう」

 薄ぼんやりとした街灯に照らされる中、積まれた材木に腰掛けていたヒロキが片手を上げる。どういうわけか、その足元には工事現場で使われるような、大きなハンマーが横たわっている。

「久しぶりだな」

 と乾いた笑顔を浮かべるヒロキは憔悴し、げっそりと痩せこけていた。酷い顔だな、と思ったがどうせボクも同じような、あるいはもっと酷い顔をしているに違いない。

「何だよ、こんな時間に……しかもこんな場所に呼び出すなんてさ」

「悪いな……でもちょっと手伝って欲しいことがあってさ」

 ヒロキは足元のハンマーを拾い上げ、その柄の方をボクに向けて差し出した。

「何だよ」

「いや、ちょっと一緒にそこの壁をぶっ壊してもらおうかと思ってさ」

 ヒロキが親指で背後を示したのは、あのコケで描かれた歪な顔があるコンクリートブロックの塀だった。

「全部……その壁のせいなんだ」

「この壁って……まさかヒロキ……」

 ヒロキの片眉がピクリと上がる。彼なりの驚きの表情がこれだ。

「なんだ、オマエもこの壁の声を聞いたことがあるんだな」

「まあな……でもヒロキ、どうしてこの壁を壊すんだ? いったい、この壁が何をしたって言うんだよ」

 ヒッと、ヒロキが短く笑った。思わず背筋の辺りがゾクリとするような、甲高くヒステリックな笑い声だった。

「知ってるんだろ……この壁が向き合う人間の本音を曝け出すってことを」

「あぁ、知ってる……でも」

「この壁は……この壁がオレの中にあった感情を……欲望を呼び覚ましたんだ……この壁がなければ、オレはあんなことはしなかったはずだ……全部、この壁のせいなんだ……」

「あんなこと? 何のことだ、ヒロキ!」

 頭を抱え、痙攣するように肩を震わせるヒロキからなかなか答えは帰ってこなかったが、やがてヒロキは絞り出すように一つの単語を口にした。

「サエ……」

「サエ? サエがどうしたって……あんなことをしたって……まさか、ヒロキ……」

「知らなかったんだ!」

 一転して、ヒロキは獣のように吠えた。しかしすぐに、怯えた子供のような表情へと変わってしまう。どう見ても、マトモな状態ではあり得ない。

「知らなかったんだ……オマエとサエが……オレはサエに想いを伝えた……この壁が、そうしろって言ったんだ……でもサエはもうオマエと……オレは諦めようと思ったんだ! でも壁が……この壁がサエをオレのものにしろって……!」

 最後には、もう声にならない悲鳴のようになっていた。

 やはりヒロキも、サエのことが好きだったのだ。この壁はそんなヒロキに語りかけ、ボクの時と同じようにサエに告白するように促した。

 しかし当然、ボクと同じ結果を得られることはなかった。ヒロキは落胆しただろうし、諦めようと思ったというのも嘘ではないのだろう。しかし、壁はその奥にあったヒロキの本心……どんな手段を使ってもサエを手に入れたいという欲望を剥き出しにして投げ返したのだ。

「……壁は跳ね返すだけだ……それを受けるも避けるも、選択権はヒロキ、オマエにあったんじゃないのか……」

 唸るように絞り出した声が届いているのかいないのか、ヒロキは両手で頭を抱えて地面に蹲ったままだ。


 ……憎め。復讐しろ。殺せ。殺せ。殺せ。……


 ヒロキを見下ろすボクの頭の中に壁の声が響く。それもまた、跳ね返ってきたボクの本心。ボクの殺意。だけど、ヒロキは生きないといけない。生きて、罪を償わなければならない。


 ……違う、オマエはそいつを殺したいはずだ。サエはそいつに殺された。サエの仇を討てよ。今なら簡単だ。さあ、その手のハンマーをそいつの頭に振り下ろせ……


「うるさい! 黙れ! 誰がオマエの言うなりになるもんか!」


 目の前で緑色の顔が、グニャリと歪んで悪意に満ちた笑顔を形作る。


 ……オレの言うなり? 違うだろ? これはオマエの本心、オマエの望みだ。殺したいだろ? 殺したいだろ? だったら殺せ。サエもそう望んでいるはずだ……


「うるさい……うるさい! うるさい! うるさい! うるさい!」

 ボクは怒鳴り声で頭の中に響き渡る声を打ち消しながら、緑色の顔に向かって力の限りハンマーを叩きつけた。


「なぁ、どうしてこんなことしたんだ?」

 何度何度もハンマーを叩きつけられて、ボロボロになったブロック塀を前にした社長の声は、ひどく優しかった。

 ボクは、ただ首を横に振る。こんなこと、どう説明したら分かってもらえる?

「すみません……」

 項垂れて、そう答えるのがやっとだった。悲しげな社長は大きなため息をついて、寝巻きにしているらしいグレーのスウェットのポケットからスマートフォンを取り出した。

「悪いけど、警察を呼ばせてもらうよ」

「……はい」

 ボクは鮮血に染まった自分の手に視線を落とした。そして、足元に横たわる、動かぬ肉塊と化したかつての親友の姿を。

 あぁ、これで本当に何もかも失ってしまったんだなぁ……そう思うとひどく悲しかったが、同時にどこかで気持ちが軽くなった感じもあった。


「それが、自由ってやつさ」


 頭の中に、壁の声が響く。いや、これは壁の声なんかじゃない。ボクだ……ボク自身の声だ。


「さあ、今こそ全ての柵から解き放たれる時だ。恋人も、親友も、家族も必要ない真の自由をオマエは得た。邪魔者は排除し、人生を謳歌しようじゃないか」


 狂ったような哄笑が響き渡る。笑っているのは壁ではなく、ボク自身だった。電話をしていた社長が驚いて振り返る。


 その脳天に向かって、ボクは拾い上げたハンマーを思いっきり振り下ろした。


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