第5話  別離

 それからさらに八年が経った。


 カヒは健やかに、たくましく成長した。

 顔つきも精悍になり、やはり声言葉はなかったが、ふらりと巷を出歩くその鷹揚とした足取りと涼やかな笑みは人々に好感を抱かせた。

 一方、族長は次第に病がちになり、しばしば床に伏せるようになっていた。


 それは稲穂の刈り取りも近づいたある夜半のことだった。

 族長がふと気配を感じて目を開けると、いつのまにか枕元にカヒが座っていた。


「どうした、カヒ」


 問うて刹那、族長は苦笑した。

 応えがあるはずもない。

 ところが予期せぬその声が聞こえた。


「別れを告げに参りました」


 それは鼓膜の奥で鐘が響くような、不思議な声であった。


「そなた、どうして」


「ずいぶん前から、お気づきでしょう。私は人ではないのです」


 月光の下、カヒはいつも通りに微笑を湛えてはいるが、その瞳には揺るぎない決意の色がある。

 族長は身を起こし、一度深く息を吐いてから、呟くように打ち明けた。


「知っておった。しかし、かまわぬ。儂の亡きあとを頼みたい」


 カヒは沈黙し、やがて不意に振り返って夜空を見上げる。


「悪龍がやって来るのです。海が堕ちたかと思うほどの雨が降り、谷川はまさしく龍の如く暴れます。そして集落は全て泥と化します」


 族長は悲痛な面持ちで天井を見上げた。


「それが災厄か」


 カヒは頷き、そしてふたたび族長へと微笑を向ける。


「私は行かねばなりません。別れです。そしてこの地を、民を護ります」


「カヒ、行くな。そなたが居てくれねば」


 その嗚咽にも似た族長の言葉に首を振ったカヒは静かに語った。


「千年の後、この地には数えきれぬほどの人々が暮らし、集い、学び、そして憩うでしょう。集落はその礎となるのです。いま滅してはなりません」


「先のことなど……知らぬ」


 言い捨てた族長にカヒは再び首を振った。


「いいえ。人も精霊も孫子の代を想い、命をつないで逝くのがことわりです」


 カヒはそう説くと、傍に置いていた一振りの石剣を差し出した。


「大鷹に拐われた童女を憶えておいでですか」


 怪訝な顔つきでうなずいた族長の膝下にカヒはそれを置く。


「あの娘はいずれ数多の族を統べる長となる子を孕っております。この剣は危難を祓い、吉兆を呼ぶでしょう。だからどうか生まれてくるその子に持たせて欲しいのです」


「それは、もしやそなたの……」


 カヒは答えず立ち上がり、族長に背を向けるとスッと息を吸った。


「母を、あなたの娘を……すまなかった」


 そして月光に溶けるようにカヒは消えた。


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