第1426話 燻り

統一歴九十九年五月十二日・午後 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 あ~あ、言っちまった……多少の差異はあれど、アウィトゥスの発言に対する感想は皆似たようなモノだった。

 アウィトゥスは元々頭の残念なところのある子供だった。比較的裕福な商家の末っ子で甘やかされて育ったということもあったかもしれないが、人を信用しすぎてしまうところがあった。誰もが正直に裏表なく生きていれば、社会の歪みとか世の不正とか、そういった悪いことはすべて無くなるに違いないと思い込んでいるようなところがあった。だから何か問題を起こして叱られるとき、大人たちが普段言ってることややってることと矛盾した御題目を押し付けてくることに納得がいかなかった。社会人は本音と建て前を使い分けねばならず、それができない者は社会人たりえないということをまだ理解できていなかったのだ。その点、八人のなかで一番頭の悪そうなカルスの方がアウィトゥスの方がよっぽど大人だったりする。貧民窟で育ったカルスは世間には綺麗事と現実という、一見すると相反するように見える二つが不可分な存在として両立していることを経験的に知っていたからだ。

 カルスは自分の頭が悪すぎて世間の綺麗事を理解できないが、自分が綺麗事の方へ合わせなければならないことは理解していたし、そのための努力もしていた。そしてどうすればいいんだと周囲に訊くことも躊躇ためらわない。

 対してアウィトゥスはというと綺麗事の方を現実に合わせなければならないと考えてしまっていた。綺麗事の方に合わせるのはバカバカしい、間違っているとさえ思っていた。


 いくら綺麗事を言ったところで現実はこうじゃないか、だったら正直になってのままにやった方が良いだろ!? 無理して見栄を張ったところで誰も幸せになるもんか! そんなんじゃ世間はますます歪んでいく一方だ。みんなで現実を直視して正直に助け合えば、みんな幸せになれるんだ! だったら醜い綺麗事なんか全部捨ててしまえ!!


 ……かなり乱暴な考えである。そして、何よりも愚かしいのは「現実を直視して正直に助け合えば、みんな幸せになれる」という現実から程遠い理想を、それこそ信じきっていることだった。そしてそのことは周囲の誰も理解できない。彼のある意味純粋すぎる思考は、周囲の者の目には邪悪な露悪趣味ろあくしゅみにしか見えないのだった。


手前てめぇ、いい加減にしろ!」


 見かねたロムルスがついに怒鳴り、アウィトゥスをブン殴る。出来ればこんな面倒なガキに関わってとばっちりを受けるのは御免被りたいのが正直なところだが、しかし今一番アウィトゥスの近くにいるのは他でもないロムルスだ。ここでロムルスが行動を起こさねば、却って不味いことになる。アウィトゥスが何らかの罰を受けるだろうし、一番近くに居た古参兵のくせに未然に制止できなかったロムルスだって責任を問われるだろう。だいたい十人隊は賞与も懲罰も一蓮托生いちれんたくしょう……運命共同体なのだ。同じ十人隊の同僚が不始末をしでかすのを指を咥えて見ているなど不義理、無責任のそしりをまぬれない。だがこうしてロムルスがアウィトゥスをブン殴れば、アウィトゥスの不始末は一応の制裁を受けたことになり、リュウイチによる懲罰を受けずに済むようになるかもしれない。軍隊における鉄拳制裁は、時に制裁を受ける兵士を軍法会議などのより大きな懲罰から守るためのものでもあるのだ。そして何より、アウィトゥスを殴ったロムルスがこの件で責任を問われる可能性は減るだろう。彼は不始末を見逃さなかった。ただ、対応が間に合わなくて鉄拳制裁次善の対処を余儀なくされただけということになるからだ。


 ロムルスに殴られたアウィトゥスは派手に身を躍らせてブッ倒れた。


『ロムルス!』


 思わずリュウイチが声を荒げ、ロムルスはビクッと身体を震わせる。リュウイチの反応が早かったおかげで、拳が当たった音が妙に小さかったことに気づいた者は少なかった。ロムルスも拳に感じた手ごたえが異様に軽かったことに気づくのは、後になってからのことになる。


旦那様ドミヌス……コイツぁ」


 自分は正しいことをした……そう確信していたロムルスだったが、いざリュウイチに怒気を向けられるとたじろいでしまう。すかさずネロが間に入った。


旦那様ドミヌス、アウィトゥスはロムルスによって罰せられました。

 アウィトゥスには後でよく言って聞かせます。

 どうか御寛恕ごかんじょのほどをたまわりたく存じます」


 アウィトゥスの無礼を詫び、ロムルスの行動を正当化する……部下の不始末に即座に対応できるのは流石である。

 リュウイチはもちろんアウィトゥスについて罰してやろうなどと考えてはいなかった。ロムルスが何の躊躇ちゅうちょもなく暴力を振るったことを咎めようとしていたわけだが、ネロの言葉、そして他の奴隷たちに目を見るにどうやらリュウイチがアウィトゥスを罰しようとしたのに、それを勝手に罰したロムルスを咎めようとしていると勘違いされているようだ。これ以上はどうかご容赦ください……彼らの目が一斉にそう訴えかけている。

 リュウイチは束の間、何かを言おうとして言葉が出て来ず、口をモゴモゴとさせたが、やがて諦めたようにフウっと溜息をついて上体を弛緩させた。そして頭をボリボリと片手で掻きむしる。


『勘違いしないでくれ。

 さっきも言ったけど、誰も罰しようとは思っていない。

 アウィトゥスも、ロムルスもだ。

 それよりアウィトゥスは大丈夫か?』


 リュウイチが全てを打ち消そうとするかのように言うと、ロムルスはハッとして未だに倒れているアウィトゥスへ視線を走らせた。別に気を失っているわけでも傷を負ったわけでもないのにアウィトゥスは不貞腐れた様子で倒れた時の姿勢のまま寝転がっている。


「平気です!

 オイッ! 手前ぇいつまで寝てんだ!?

 起きろコノォ!!」


 ロムルスはこの気まずさを打ち払うように、明らかに必要以上の乱暴さでアウィトゥスの胸倉を掴んで無理やり起き上がらせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る