第1417話 ゴルディアヌス失神

統一歴九十九年五月十二日・午後 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 リュウイチは思わず頭を抱えそうになった。《風の精霊ウインド・エレメンタル》の言い分は完全に犯罪者のそれだった。バレなければ大丈夫だし、バレるわけはない……《風の精霊》の言っていることを端的に表現するならそう言うことだった。

 精霊エレメンタルは肉体を持たない。そして他の精霊との境界となるものが存在しない。その魂は容易に他の精霊のと融合し、また分離する。アイデンティティというものが、ただの空気の流れでしかないのだから、《風の精霊》個々の寿命は酷く短く、そして存在そのものがどこまでも曖昧だ。自然、社会性というものを全くと言っていいほど持たない。他者と関り生きて行こうという意識が非常に希薄なのだから、自分の行いによって他者がどうなろうが知ったことではない。関心を持てないのだ。責任とは、他者と関わって生きようという意欲の現れ……それがない《風の精霊》は必然的にこのような非常に無責任な考え方を持ちやすい。

 ルキウスが言った精霊エレメンタルの行動はあるじの魔法と見做みなされるというのは、実はこういう精霊の在り方も背景にある。精霊が何かをやって責任を取らせようにも、精霊には責任という概念自体が理解できないのだ。無理に罰しようつぐなわせようとしても、精霊は他の精霊との境界が曖昧ですぐに他の精霊と混じったり、あるいは分裂したりできるから簡単に逃れることができ、責任の追及のしようがないのだ。

 例外はアルビオン海峡をつかさどる《水の精霊ウォーター・エレメンタル》アルビオーネのように、自分独自のエネルギー源を独占し、特定の場所で土着の神として永く生きている精霊ぐらいのものだが、神にも等しい存在を罰したり償いを求めたりするほど人々は愚かでも尊大でもない。なお、《レアル》ローマにおいてキリスト教会が大神ユピテルを裁判にかけて有罪にしたというエピソードはレーマにも伝わっており、レーマ帝国でキリスト教が嫌われる原因の一つにもなっており、レーマ正教会ではそのエピソードを「恥ずべき行為」と明言している。


 とまれ、《風の精霊》に人間社会の規範意識や道徳観念を期待するのは無理だ。無謀ではなく無理なのだ。リュウイチはそこまで悟ったというわけではないのだが、《風の精霊》の感覚がリュウイチの常識から根本的なところで大きくずれていることに気づくことぐらいはできていた。ここでこれ以上風の精霊を追求するのは時間の無駄である。


『ゴルディアヌス』


「へっ!? ヘイッ!」


 ビクッと身体を震わせたゴルディアヌスにリュウイチは違和感を覚えた。


『《風の精霊ウインド・エレメンタル》が言っていた、妖精を借りた……ゴルディアヌス、大丈夫か?』


 リュウイチの声色が急に変わり、ネロとロムルスの注意もゴルディアヌスに向いた。ゴルディアヌスはというと顔は青ざめ、玉のような脂汗を顔じゅうに浮かべ、意識が朦朧もうろうとしているかのように半開きの目を小さく痙攣させながら、身体全体をフラフラと揺らしていた。これにはネロもロムルスも唖然としてしまう。いったい何が起こっているのか、誰にもさっぱり分からなかったからだ。


「で、大丈夫でぇじょうぶで、俺ぁ、大丈夫でぇじょうぶで……」


 うわごとの様に答えるゴルディアヌスは誰がどう見ても大丈夫じゃない。リュウイチは思わず立ち上がった。


『ロムルス、椅子を用意しろ!』


「ハッ!!」


『ゴルディアヌス、椅子を用意するから座るんだ!

 ネロ、ゴルディアヌスにこのポーションを』


 ロムルスに椅子の用意を命じたリュウイチが立て続けにゴルディアヌスに全ての状態異常を回復する万能薬を用意しようとすると、ネロはリュウイチの意図に気づいて慌てて止めた。


旦那様ドミヌス

 大丈夫です、自分が良いのを持ってます!

 ポーションは御仕舞ください」


 そう言うとネロはリュウイチの方ではなくゴルディアヌスの方へ駆けだした。いくら自分の奴隷セルウスだからといって些細なことでイチイチ《レアル》の魔法薬ポーションなんか使われたら……ネロたちだって立場や世間体というものがあるのだ。上級貴族パトリキでさえ入手できない魔法薬の恩恵に只の奴隷が預かってるなんて知れ渡ったらどんなやっかみがあるか知れたものじゃない。見た目が上等なだけの服と魔法効果のある薬では訳が違うのだ。

 立ちすくむリュウイチを尻目にネロはゴルディアヌスのかたわらまで駆け寄ると、そのふらつく身体を支えた。それとほぼ同時にロムルスがすぐ後ろに椅子を用意する。


「ゴルディアヌス、後ろに椅子がある。

 座るんだ。いいか?

 ゆっくりだぞ? ゆっくり……」


 相変わらず「大丈夫でぇじょうぶだ、オレぁ大丈夫でぇじょうぶだ」とうわごとを繰返すゴルディアヌスを、ネロとロムルスは左右から支えながらなんとか座らせる。座ったゴルディアヌスは上体を完全に背もたれに預け、身体を脱力させ、天井に向けられた目は何も見ておらず、ただ喘ぎつづけている。


「ど、どうしちまったんだコイツ?」


 ゴルディアヌスを座らせて一歩引いたロムルスが呆れたように言う反対側で、ネロはゴソゴソと腰の魔法鞄マジック・ポーチから何やら革の小物入れを取り出した。


「ゴルディアヌス、気付け塩ハンモーニアクス・ソルだ。

 しっかりしろ、ゆっくり吸うんだ」


 ネロは蓋を開けた小物入れの更に内側にあった捻じ込み式の蓋を開け、ゴルディアヌスの鼻先に近づける。その様子を見たロムルスは興味深そうにはしながらも、そこから漂ってくる異臭に顔をしかめて半歩後ずさった。


「よくそんなモン持ってたな……」


 気付け塩【Hammoniacus salハンモーニアクス・ソル】は鹿の角から抽出した炭酸アンモニウムのことだ。アンモニアだから当然臭い。ヒトより鼻の良いホブゴブリンには余計にキツイだろう。実際、ゴルディアヌスはウッと呻き声を漏らし、顔を顰めている。

 炭酸アンモニウムは刺激臭によって交感神経を刺激し、興奮状態を引き起こすもので、失神状態や今のゴルディアヌスの様に意識が不明瞭な状態に対して有効なことで知られており、気付け薬として普及定着していた。ネロの場合は更にこれを嗅ぎ薬として効果を発揮しやすいようにアルコールに溶かし、スズ合金の小瓶に入れて携帯していたのだった。


「いつ必要になるか分からないからな。

 軍人なら、常備しておくべきだろう?」


 ゴルディアヌスが意識が回復する兆しを見せたところで、ネロはロムルスに応えながら気付け塩の容器に蓋をする。


「それにしたって……」


 お前もう軍人じゃないだろ……とはさすがのロムルスも続けなかった。

 ガラスが普及しておらず、ステンレス鋼もチタン合金も存在しないこの世界ヴァーチャリアでアルコールを携帯できる容器は限られる。変な容器に入れれば内部で変質したり腐敗したり、あるいは容器を腐食させてしまったりするからだ。ネロが使っていた容器はスズに少量の鉛を加えた合金製で、金属臭が内容液に移りにくい、ヴァーチャリア世界で最も普及しているスキットルの一種である。スズ合金の容器はそのままだと柔らかくて変形しやすいので、肉厚にしなければならないが、それでは重くなる。なのでネロの物は薄肉のスズ合金容器をチューア産の竹を使った寄せ木細工のようなケースに入れ、更にその外側を皮革で覆って携行性を高めたものだった。当然、安くはない。奴隷なんかが簡単に買えるようなものではなく、ロムルスが最初に関心したのは実はそっちの方だったりする。奴隷に堕とされた際に彼らは私物を全て没収されたはずだったから、ネロがそんな高価なものを持っているわけがないからだ。ちなみにこれはネロが奴隷に堕とされた後、叔父のセウェルスから貰ったものである。


 母親プリマの事は任せろ。気をしっかり持て……そんなメッセージを添えてスキットルを送ってくるあたり、セウェルスのセンスが疑われるが、ネロはそのセンスに早速助けられたことに内心で感謝しながら容器をポーチに仕舞った。

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