第1415話 ゴルディアヌスの窮地

統一歴九十九年五月十二日・午後 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



 五分後、リュウイチは普段居間代わりにしている小食堂トリクリニウム・ニウスに戻っていた。リュウイチが戻るとすぐに陣営本部ここの警備の責任者である特務大隊コホルス・エクシミウス大隊長ピルス・プリオルクイントゥス・カッシウス・アレティウスが出迎えの挨拶というていで状況を確認にきたが、これにはネロが対応し、クィントゥスは特に異常がないことを確認するとこの後予定されている晩餐会ケーナの警備の準備もあってすぐに戻っていった。クィントゥスへの対応を終えたネロは今、リュウイチのために香茶を用意してくれている。

 長椅子クリナに腰かけるリュウイチは部屋にいる面々を見渡した。オトはリュキスカの元へ用事を頼んであるが、その他の奴隷たちは全員いるはずなのに人数が足らない。


『アウィトゥスはどうしたんだ?』


 誰が居ないのか気づいたリュウイチが尋ねると、ネロ以外の奴隷たちは互いに顔を見合った。


「さぁ……アイツ、今朝から見てません」

朝飯イェンタークルムは食ってたぜ?」

「今日はアイツが休みなんじゃなかったっけ?」


 リュウイチは奴隷たちに順番に休日を取るように命じていた。どうやら今日が休日なのはアウィトゥスだったようだ。


『アウィトゥスは休みの日は何をしてるんだ?』


「さぁ……ブラブラしてるみたいですけど……」

酒保しゅほか?」

「いや、アイツそんなに金ねぇぞ?」


『外に出たとかじゃ無けりゃいいんだけど……』


「それはあり得ません旦那様ドミヌス

「いくら俺たちだってマニウス要塞カストルム・マニからは出ようとは思わねぇ」

「俺らが陣営本部プリンキパーリスの周りから離れたら必ず特務エクシミウスの奴らが誰かついて来るんだ。

 アウィトゥスなんかが出ようとしたってすぐに捕まっちまいますよ」


 ふーん……リュウイチは気の無い返事をしつつ、背もたれに背を預けた。室内にいるのはネロ、ロムルス、そしてゴルディアヌス……三人はリュウイチの関心がアウィトゥスから離れたのを敏感に察知した。


『まぁいいか、問題を起こさなければ自由にしていいと言ったのは私だしね』


 ネロが淹れた香茶をリュウイチの前に差し出すと、リュウイチは小さく『ありがと』と礼を言った。


『さて、手早く話を済ませようか。

 《風の精霊ウインド・エレメンタル》を長く赤ちゃんから話しておきたくないしね』


 ゴルディアヌスは悪戯がバレた少年のように叱られるのを覚悟し、ゴクリと喉を鳴らして身を縮こませた。


『《風の精霊ウインド・エレメンタル》!』


 リュウイチの呼びかけで室内に一瞬旋風が巻き起こり、リュウイチの目の前に《風の精霊》が姿を現した。何度見ても肉眼では見えづらい。特にこのような薄暗い屋内では猶更だ。


『これから彼らと話をする。

 君も交えて……だからこれから彼らにも聞こえるように話せ』


かしこまりました、我が主』


 リュウイチが命じると全員の頭の中に《風の精霊》の神妙な声が響くと、これから始まることを想像して全員が緊張も新たに姿勢を正した。リュウイチはその雰囲気にのまれたのか、無意識に脚を組む。


『さて、さっき言ってた、えーっと……トラキラだっけ?』


 ド忘れしたリュウイチが名前を間違えると、ゴルディアヌスが上ずった声で訂正する。


「ト、トルキラ様です、旦那様ドミヌス


『そう、そのトルキラというのは何者なんだ?』


 リュウイチにとってそれは聞き覚えの薄い名前だった。しかし、念話が使えなかった筈のゴルディアヌスが念話を使って会話していた。しかもその会話の中で出ていた名前なのだからリュウイチとしては無関心ではいられない。念話を使えなかった筈のゴルディアヌスが念話が使えるようになっていたということは、ほぼ間違いなく精霊エレメンタルか、あるいは何らかの魔物が絡んでいるはずだ。


「よ、妖精、です」


『妖精?』


 ますます納得できない答えにリュウイチは思わず顔を歪める。本人に咎めるつもりはないが、しかし後ろめたいことを抱えたゴルディアヌスには、リュウイチがゴルディアヌスを詰問しようとしているように感じられた。だが普段から豪放磊落ごうほうらいらくを理想とし、同時にウリにもしているゴルディアヌスは自らの後ろめたさに屈することを良しとはしない。腹をくくったように思い切って声を張った。


「は、はいっ!

 《風の精霊ウインド・エレメンタル》様の眷属で、《風の精霊ウインド・エレメンタル》様にお借りしました」


 ゴルディアヌスのヤケクソのような答えにリュウイチは呆れ、目を閉じ眉間を揉みながら溜息をついた。


『何で!?

 何のために???』


 声量も声色も抑制が利かされていはいたが、普段温厚なリュウイチがこうも苛立いらだちを露わにすることにゴルディアスもすっかり怖気おじけづき、黙りこくってしまう。

 しばらく待ってみても応えないゴルディアスにリュウイチは眉間を揉むのをやめ、手を降ろし目を開けた。リュウイチは目の前に立つゴルディアヌスはいつもより一回り小さく見える。その時の違和感にリュウイチが怪訝けげんな表情を浮かべると、ゴルディアヌスは唇をギュッと噛みしめ、うつむいた。泳ぐその目に浮かぶのは不安、そして後悔だ。ねてるのか……一瞬そう思ったリュウイチだったが、握りしめられたゴルディアヌスの両拳がかすかに震えていることに気づくと、そうではないと思いなおした。


 ……やっちまったか?


 ゴルディアヌスはおびえていた。そしてリュウイチの視界の端に映るロムルス、そしてネロも酷く緊張して見える。さっきまでおしゃべりなくらいだった三人が、今はガチガチに固くなっていた。リュウイチを怒らせたかもしれない……彼らはその結果どうなるか想像を膨らませ、得体の知れない恐怖に囚われてしまっていたのだ。リュウイチが降臨者であるということもあるが、それ以上に自分たちが奴隷セルウスであるという立場が彼らを必要以上に追い詰めてしまっている。《レアル》から人権という概念が持ち込まれて以降、奴隷にもある程度権利が認められるようになっているとはいえ、主人に生殺与奪権せいさつよだつけんを握られているという現実は今も変わらない。気に入らなければ売り飛ばされる……その結果行きつく先がどんな地獄かは想像もつかない。彼らにとってこの場は、死刑宣告も充分にありうる軍法会議にも等しい場だったのだ。先ほどまでのアウィトゥスに関するかしましいまでの彼らのおしゃべりは、これから繰り広げられる尋問への不安を打ち消すためのものにすぎなかったのである。

 奴隷たちの異様な雰囲気に今更ながら気づいたリュウイチは、同時に自分がそれだけ彼らに恐れられているのだと初めて自覚した。


 ……上司は溜息一つこぼすだけでもパワハラになるっていうもんな……


 リュウイチは右手を再び額に当て、広げた指で左右のこめかみを揉みこんだ。

 こんなことは望んでいなかった筈だ。リュウイチは自分の軽挙妄動けいきょもうどうのために処刑されることになってしまった彼らを救うために彼らを奴隷として買い取ったはずだ。それがこのように威圧されて生きた心地もしないような境遇を味わわせてしまっているとしたら、それは処刑よりも酷い拷問をかけて痛めつけるために買い取ったのと同じである。


『《風の精霊ウインド・エレメンタル》』


 リュウイチはひとまず質問する相手をゴルディアヌスから《風の精霊》に切り替えることにした。

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