第1414話 逃げ出したリュキスカ

統一歴九十九年五月十二日・午後 ‐ マニウス要塞陣営本部プリンキパーリス・カストリ・マニ/アルトリウシア



『リュキスカ、できればもうちょっと付き合ってほしいんだけど……』


 二階の自室へ戻ろうとするリュキスカにリュウイチが呼びかけた。今日は朝からずっと貴族ノビリタスと一緒に過ごさねばならず、またリュウイチからは変な話をいっぱい聞かされたりしていい加減にくたびれていたリュキスカはウンザリしてしまうのを禁じ得なかった。

 しかし、今日聞かされた不愉快な話の数々についてリュウイチがリュキスカに良くしようとした結果そうなったというような話ばかりであったし、それらの話についてリュキスカが不快になったのはリュウイチの、いわゆる報連相ホウレンソウの不足のせいである。リュキスカをこうもひっぱりまわすのはリュウイチなりの反省の結果なのだろうというのはリュキスカじゃなくてもよく理解できていた。が、理性では理解できていても我慢しかねることはある。かといってこれ以上リュウイチに我儘わがままを言うのはどうかとも思ってる。さすがにリュキスカも今日はリュウイチに対して強く当たり過ぎた。リュキスカも反省することはあるのだ。

 階段で立ち止まったリュキスカは悪い感情を押し殺し、表情を何とか取りつくろいながら顔だけリュウイチを振り返る。


「えっと……晩餐ケーナの前にお風呂バルネウム入りたいんだけど?」


『……浄化魔法があるだろ?』


 リュウイチはリュキスカにルクレティアに渡したのと同じ『聖なる光の杖』ワンド・オブ・ホーリー・ライト『魔力共有の指輪』リング・オブ・マナ・シェアリングを渡してあった。今日だけでもリュキスカは既に何度も浄化魔法を使っている。浄化魔法が使えるようになって嬉しくてはしゃいでしまったというのもあるが、人知れずに生理の下り物を浄化したかったというのが大きい。最初は加減が分からずに自分にかけて汚れのみならず化粧まで落としてしまっていたが、今はだいぶ加減も出来るようになってきていて自分にかけても化粧は残せるようになっていた。その様子はリュウイチも他の奴隷たちも見ていて知っている。

 

「お化粧だって直したいんだよぅ!

 昼と夜でおんなじ格好でいいわけないだろ!?」


『着替えや化粧直しはまだ早いだろ?

 それまでには終わるから』


 リュキスカが思っている以上にリュウイチはしつこかった。もしかしたら教えることはちゃんと教えてとリュキスカが言ったからリュウイチはこうも一緒に居たがるのだと思うのだが、ひょっとしてアレを根に持ってたりするのだろうか? 思わずそんな邪推をしたくなってしまう。


「えっと……フェリキシムスもいるしさ?」


『それだよ!』


 さすがに赤ん坊を盾にすればリュウイチも無理は言うまいと思ったが、リュウイチの反応はリュキスカの期待とは真逆だった。


「何よ!?」


『《風の精霊ウインド・エレメンタル》だ。

 赤ちゃんには魔力が暴走しないように《風の精霊ウインド・エレメンタル》を付けてるけど、これから話に《風の精霊ウインド・エレメンタル》も参加してもらうから、その間赤ちゃんが無防備になってしまうんだ。

 赤ちゃんが魔力を暴走させちゃわないようにするためにも、赤ちゃんを連れてきてほしい』


 まさかリュウイチの方にフェリキシムスを人質にとられてしまう。


「えっと、アタイが近くにいるし、大丈夫じゃないの?」


『君が近くにいる時でも変な風が吹いたり水が揺れたりしたんだろ?』


 そう、リュキスカには魔力は備わっているが、まだ使いこなせるわけではない。並の神官を上回るほどの魔力を持ってはいても、魔道具マジック・アイテムの力を借りなければ満足に魔法を使うことなどできないのだ。当然、赤ん坊が放つ魔力を外から抑え込むこともできなければ、寄ってきた野良の精霊エレメンタルを追い払ったり制御下に置いたりすることもできない。それどころか、他人の魔力の気配や精霊の気配を感じ取ったりすることもまだできないのだ。フェリキシムスが魔力を暴走させたとしても、対処することはおろか、何か目に見える現象が起こる前に気づくことさえできないのである。

 リュキスカは半歩、階段を降りて身体ごとリュウイチの方へ振り返る。


「な、何とかなんないのかぃ!?

 その、兄さんと一緒に居るのが嫌だってんじゃないんだよ。

 さすがにフェリキシムスがさ、こうも人前に出ずっぱりだとさ?」


『いや、そうは言っても……』


 たしかに生まれついての上級貴族パトリキの子だって小さいうちは人前に出されることは普通は無い。にもかかわらずフェリキシムスはリュキスカに抱かれながらとはいえ今日はかなりの長時間、貴族たちの前に出っぱなしだった。言われてみれば不憫ふびんではある。かといって赤ん坊を守る《風の精霊》はこれからリュウイチの前でゴルディアヌスと一緒に御説教タイムが待っているのだから、リュキスカにフェリキシムスを連れて二階の寝室クビクルムへ上がられるとフェリキシムスを守り切れない可能性が十分にあった。


「そうだ!

 アタイにも何か精霊様エレメンタルをつけてくれるんだろ?

 丁度いいから《風の精霊ウインド・エレメンタル》とは別のさ、何か精霊エレメンタルをつけておくれよ!

 今だけそいつにフェリキシムスを守ってもらうからさ?」


『え!?』


 いや、確かに言った。今朝のことだし、さすがに忘れたとか誤魔化せない。だがルキウスはエルネスティーネに話をつけるまで待っていてほしいと言っていた。ルキウスの要請に従わなければならないような強制力があるわけではないが、しかしリュウイチとしては世話になっている身でもあるしこれ以上迷惑の尻ぬぐいをさせたくはないという思いがある。


『いやでも、それは……』


「いいじゃないさ!

 別にソイツを使って何かやらかそうってぇんじゃないんだ。

 兄さんが《風の精霊ウインド・エレメンタル》にやらせてたことを、アタイもソイツにやらせようってだけなんだ。

 別にいいだろ?」


 お前もやっていた事だ……と言われるとさすがに反論できない。フェリキシムスを守るためだったとはいえ誰にも断りなく《風の精霊》を使ったのは覆し様のない事実なのだ。

 リュウイチの押しが弱まったところでリュキスカは余裕を取り戻す。


「だいたい、アタイが居なきゃいけないような話なのかい?」


『え!? ……いや、別に……』


「じゃあ別にいいじゃないさ」


 リュウイチは無意識に援けを求めて周囲の奴隷たちの顔を見まわした。だが、さすがに奴隷たちもリュウイチよりはリュキスカの言ってることの方が理解できる。そもそもここは男尊女卑だんそんじょひの社会……奴隷たちは口にこそ出さないが男と男の話し合いの場に女性であるリュキスカをイチイチ参加させるのはどうなんだという疑問は彼ら全員が共有していた。当然、リュウイチがリュキスカを呼びたいという気持ちが分かっていたとしてもリュウイチを助けようとは誰も思わない。むしろ、彼らの立場から言えばイチイチ女を連れまわす癖をつけないよう、あえて味方しない方が正しい忠義の在り方なのだ。

 味方を得られないリュウイチにリュキスカはこれ以上は無いと安堵した。


「兄さんさ」


 リュウイチの注意がリュキスカに戻る。


「アタイは確かに色々教えてって言ったよ?

 でもそれはさ、アタイに話をしてって言ったのよ。

 コミュニケーションよ、コミュニケーション……分かる?」


『ああ……うん』


「兄さんがアタイに一緒に居てっていうのはさ。

 アタイが知っとくべきことを兄さんが話さなくてもアタイが分かるようにってことだよね?」


『いや、うん……そう、かな?』


「それってアタイとコミュニケーションとらなくてもいいようにってことじゃないの?」


 リュウイチが言葉を失ったのは図星を突かれたからか、それとも意図せぬことを言われて失望したからなのか、それはリュウイチの表情を見る周囲の者たちには判断ができなかった。


「兄さんがさ、アタイのこと好きになってくれて、それで一緒にいたいっていうんならアタイも嬉しいけどさ。

 でもそうじゃないんならさ。

 ましてアタイと話をしたくないから一緒に居てっていうのならさ、アタイも困ンだよね」


リュキスカ様ドミナ・リュキスカ


 ネロが見かねたように口を挟んだ。リュキスカの言いたいことは分かるし、多分正しい。リュウイチがリュキスカを過剰に連れまわそうとするのは色々と問題だし正直やめてほしいとも思う。だが、奴隷とは言え他の者たちがいるところで女のリュキスカが男のリュウイチをこうまで一方的に𠮟りつけるのはレーマ帝国の一般常識や規範的に許されることではなかった。

 ギロっと睨むリュキスカにネロはあえて胸を張ってお堅い姿勢を取る。


旦那様ドミヌスは反省しておいでです。

 そのあたりになさってはいただけないでしょうか?」


 リュキスカはフンッと鼻を鳴らすときびすを返した。ネロに言われるのは正直言ってしゃくさわるが、言ってることは間違って無いし、今日のリュキスカは既にリュウイチにあまりにもモノを言いすぎている。自分でもそれは自覚している。今はまだ気が立っているが、多分このあと気分が落ち着いてから言いすぎたことを悔やみ、この後で支障が出たらどうしようなどと悩みのたうち回ることになるのだ。これ以上、傷口を自ら広げることは無い。

 二階へ上がっていくリュキスカを見送りながら、リュウイチと奴隷たちは期せずして同時に溜息をついた。


『オト』


 赤ん坊用のオシメなどの入った籠を抱えたオトがリュキスカの後を追おうとするのをリュウイチが呼び止める。


『済まないが後でリュキスカにどの精霊エレメンタルがいいか訊いておいてくれ』

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