第1409話 二つ目の名前

統一歴九十九年五月十二日・午後 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



『何か、手続きが必要だったんですか?』


 リュウイチの一言に一同の丸くした目が一斉に向けられる。


『いや、その、聖女とかいうのになったら私の名前で呼ばれるようになるっていうのはルクレティアとかルキウスさんから聞いてましたけど、てっきり聖女になった時点で自動的にそうなるものかと思ってました……違ったんですか?』


 一同はどこか呆気にとられた様子で互いに見合う。そのうちリュウイチは自分が変なことを訊いてしまったのかと不安になり、『えっと……』と戸惑いながら声を出しかけたところでルキウスが咳払いした。


「すみませんリュウイチ様。

 確かにそうなのですが、聖女サクラを迎えることに消極的だったようでしたので、てっきりお認めくださらないのかと……」


『えっ!? あ~~……』


 ルキウスの説明にリュウイチは驚いた。聖女や巫女サセルダは降臨者にその身を捧げた女性であり、世間的には降臨者の所有物であり実質的な妻として見做みなされる。必然的に以後は降臨者の“身内”となり、降臨者の名を氏族名ノーメンとして名乗ることになる。それが慣習だというのならリュウイチに拒む意志は無かった。郷に入っては郷に従え、朱に交われば赤くなる、良くも悪くもその場の雰囲気を読み、周囲に合わせる日本人的な感覚を持つリュウイチは、その社会はこういうルールで動いているとなれば、それがよほど納得しがたい理不尽なものでもないかぎり受け入れることは当然だと考えていた。

 だがそうは言っても全てを無条件に諸手を挙げて受けれられるかというとそうでもない。どうしようもないことであっても受け入れがたい事はある。リュウイチはあくまでも預かっていた従兄の子、この世界ヴァーチャリアで《暗黒騎士だあくないと❤》として活動していた祐二ゆうじの訃報を報せるために来ただけであって、この世界で生きていくつもりなど更々無く、帰る方法さえわかれば帰るつもりでいたのだ。それなのに現地で妻をめとり子を成そうなどと考えるわけもなく、無責任なことはすべきでないという無駄に厳格な理性を働かせた結果、ルクレティアやリュキスカがリュウイチアと名乗ることになるという話を聞いた時も頭の中では「そういうもんか」と思いつつ、表情は無意識に曇らせていたのだった。ルキウスたちはそれを見て踏みとどまっていたのである。


 ルキウスたちはもちろんリュウイチの子供が欲しかった。この世界には降臨者の血を引く、強力な魔力を持つ聖貴族コンセクラートゥムが必要だ。史上最強の実力を持つ《暗黒騎士ダーク・ナイト》の子なら、強い魔力が期待できるだろう。だがリュウイチは子を残すことには乗り気ではない。性欲が無いわけではないくせに、女をあてがおうとすると遠慮する。だから仕方なく既成事実を積み上げて慎重に外堀から埋めていき、ルクレティアやリュキスカを聖女とするところまで漕ぎつけたのだ。たったの一か月で大した成果だと誇っていいだろう。

 しかしあまり調子に乗りすぎて一線を踏み越えてしまうようなことがあってはならない。リュウイチは大人しい性格だが、その実力は世界を破滅させるほどのものなのだ。実際、アルビオン海峡をつかさどる《水の精霊ウォーター・エレメンタル》アルビオーネの話したことが本当なら、かつて世界を滅ぼしかけた大災害は《暗黒騎士》が放った大魔法が原因ということになる。むしろここまで急ぎ過ぎたかもしれない。まだたった一か月しか経ってないのに実質的に二人を娶らせているのだ。ここで調子に乗りすぎて、どこにあるかまだ分からない逆鱗にうっかり触れてしまうようなことがあれば、今までの成果は全て無駄に……いや、それどころか世界は再び破滅へ向かうことになるかもしれない。


 そんなわけでルキウスたちは一旦様子を見るつもりでいた。本来ならルクレティアもリュキスカもリュウイチアを名乗って良いのだが、リュウイチが良い顔をしないようだから大っぴらに名乗るのは、彼女たちをリュウイチアと公然と呼ぶのは、しばらく差し控えようと……解放奴隷リーベルトゥスだって元・主人の氏族名を名乗るのが一般的だが、それは元・主人が認めた場合だけであって必ずそうと決まっていたわけでもない。聖女も慣例的にそうだっただけで、必ずそうと決まっていたわけではなかった。歴史上、降臨者の名を名乗れなかった庶子もいなかったわけではないのだ。これ以上無理に急ぐ必要はない……そう思ったが……


「じゃ、じゃあ、リュウイチアって名乗っても良かったのかぃ!?」


 リュキスカが椅子を鳴らし、身を乗り出すように尋ねると、リュウイチは気圧されたように仰け反りながら答えた。


『え、そりゃ、私はそのつもりだったけど?』


 リュウイチの答えにリュキスカの表情がパァっと明るくなる。


「じゃ、じゃあこの子も、この子もリュウイチウスって、名乗っていいんだね!?」


『えと、それが慣習だっていうんなら……』


 リュキスカは「はぁぁぁぁ」と声にならない声を漏らすと、抱きかかえていた息子をギュッと抱きしめ、頬ずりをした。


「やったよぉフェリキシムス!

 お前は今日からフェリキシムス・リュウイチウスだ」


「おめでとうございますリュウイチア様、リュウイチウス様!」

「おめでとうございます!」


 すかさず軍人たちが一斉に祝うとリュキスカは先ほどまでの不機嫌が嘘のように目に涙を浮かべながら「ありがとう、ありがとう」と礼を繰返した。二つ目の名前を持つ……それは根無し草の漂泊民ペレグリヌスからの脱却、平民プレブスへの仲間入りを意味していた。


 漂泊民、放浪者、異邦人、呼ばれ方はともあれ、ひとところに留まることなく流れ続ける者はいつの時代でも差別の対象である。ひとところに留まり苦難を共にする者たちから見て、ただ流浪を続ける余所者は無責任にも見えるし信用の置けない存在だ。他所から何を持ち込むかわかったものではないという不安もあるだろう。

 しかし当人たちから見ればまた物の見え方は違ってくる。誰だって不安定な生活など決して送りたくはないが、ひとところに留まれない者にはそれなりの理由があって仕方なく流浪せざるを得ない者も少なくは無いのだ。そしてその理由は必ずしも堅気かたぎから批判されるようなモノとは限らない。堅気で安定した生活を送りたいと願いつつも行く先々で拒絶され、やむを得ず流浪せざるを得ない者だって少なくない。そもそも余所者を気安く受け入れてくれる土地自体がそれほど多くないのだ。

 リュキスカの母スキッラが何故、流浪の身となったのかは今となっては定かではない。しかしリュキスカの記憶にあるスキッラもまた、不安の無い安定した生活、堅気な生活を夢見ていた。そして移民を受け入れてくれやすい辺境の土地へ、アルビオンニウムへと流れつき、だがそこでも貧困にあえぎ続けていた。移民をほぼ無条件で受け入れてくれるのは辺境の中でも更に辺境な開拓村ぐらいなものであり、アルビオンニウムのような都市部の話ではない。むしろそうした辺境都市は既に古い歴史を持ち安定していた都会なんかよりもずっと差別が顕著で激しく、特に新参の流れ者に容赦がない。半端に安定を手に入れた貧困層は、後から来た者に追い越され幸福を手に入れられ、自分が取り残されることに潜在的な恐怖を抱くからだ。

 リュキスカも母スキッラと共にそうした差別の洗礼は受けていた。踊り子として商売をしたいと願いながら、娼婦という立場から脱却できなかったのは決してスキッラの踊りの実力が無かったからではないのだ。貧民街の人間たちは、似たような境遇同士で助け合いながら、同時に互いに足を引っ張り合うことで互いの立場を安定させる。身を護る後ろ盾を持たない女が、子供を連れて一人で生きていくには、そんな悪循環の中の悪い意味での安定に身をゆだねるしかない。そしてどれほど藻掻こうとも抜け出すことのできない貧困の中で、スキッラは病に倒れ生涯を終えた。

 そんなスキッラを身近で見て来たからこそ、リュキスカもまた貧困層からの、漂泊民からの離脱を夢見続けていた。だが、異邦人が平民の仲間入りをして貧民街から抜け出すのは容易ではなかった。物心ついた時には既にアルビオンニウムで生活していたリュキスカにとって、アルビオンニウム以外の土地なんて知る由もない。にもかかわらず余所者として扱われ続ける理不尽……多少小銭を貯めて他所へ引っ越したところで、名前が一つしかない時点で平民ではないとすぐにバレてしまう。氏族名や家族名を勝手に名乗ったところで、親戚がいなければすぐにウソとバレる。添えなアグノーメンだって他人につけてもらうものだし、個人名プラエノーメン以外の名前は他人に認めてもらえなければ勝手に名乗れるものではないのだ。せめて一つの土地に長く住みついて近所の人たちにも受け入れてもらえ、しかも同じ名前の人間が他にいるなら土地の名を家族名として名乗らせてもらえることもあるが、“雌狼犬リュキスカ”なんて通常ではあり得ない名前を名付けられた時点で、個人名以外の名前を添えて他人と区別する必要もない。結局リュキスカは、どれほど本人が望もうとただのリュキスカであり続けるしかなかったのだ。

 そんなリュキスカにとって、そして全ての漂泊民にとって、二つ目の名前を与えられるということは、流浪生活からの脱出を意味していた。市民権を与えらえた、人権を認めてもらえた、別の言い方をすればそういうことになる。母の代から望み続けた安定した生活、当たり前に人間として扱ってもらえる権利、堅気の身分、それが今やっと手に入った。いや、正確に言えばリュキスカが夢見続けていた平民よりもずっと上の身分を手に入れていたのだが……


「ああ、フェリキシムス!

 お前は本当に名前の通りの“幸運に恵まれた男フェリキシムス”だよ!」


 涙を流しながら赤ん坊にキスの雨を降らせる彼女を、リュウイチは何か不思議なものでも見るような様子で眺めていた。

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