第1408話 リュウイチアの名

統一歴九十九年五月十二日・午後 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



 リュウイチが動けばルキウスがリュウイチを操り利用したと言われる。

 ルクレティアが動けばルキウスがルクレティアを操り利用したと言われる。

 リュキスカが動けばルキウスがリュキスカを操り利用したと言われる。

 だがグルグリウスを動かしてもルキウスがグルグリウスを操り利用したとは言われない……


 見ようによっては、リュウイチやルクレティア、リュキスカはルキウスに操られ利用されてもおかしくないような愚か者で、グルグリウスはそうではない……そう言っているように捕えられなくもない。ルキウスは確かに、リュウイチが言うようにそういうつもりで言ったわけではないだろう。だがルキウスはグルグリウスが問題にならない根拠の一つとして、グルグリウスが独立した一個の人格の持ち主だからと言ったのだ。それはリュウイチはともかくとして、ルクレティアやリュキスカは尊重に足る独立した一個の人格の持ち主として認められていないと言っているようなモノではないか? ルキウスにそんなつもりはなかっただろうし、話を聞いていた男たちにもそんな風に考えた者はいなかっただろう。だがそれはリュキスカの不快を催させるには十分なものだった。


「グルグリウス様ってのはリュウイチ様の子分の子分なんだろぉ?

 なのにそんな奴にリュウイチ様が劣るみたいなこと言われちゃさぁ、アタイだって面白くないじゃないさ?」


 面白くないのは自分に人格がないみたいなことを言われたリュキスカ自身だったが、そこは男尊女卑だんそんじょひ社会のレーマ帝国、そのまま言ったところで一笑に伏されて終わる。そこをさりげなくリュウイチの問題へとすり替え、貴族たちノビリタエも無視できないように持って行く程度の知恵はリュキスカも持ち合わせていた。

 しかし、面白くないのはリュキスカにいきなり揚げ足をとられたルキウスの方である。ルキウスは貴族などの支配階級に対して批判的で一見するとこの世界ヴァーチャリアでは珍しくリベラルな思考の持ち主に見えるが、だからといって別にリベラリストなわけではない。ただ単に自分に過酷な運命を課した貴族社会を構成する不真面目で堕落した貴族たちが嫌いなだけで、貴族社会そのものに疑問を抱いているわけではなかったし、それどころか自分が貴族であることには誇りさえ持っていた。貴族とはこうあるべきだ……という理想像は、彼の中にはきちんと存在し、自分もかくあらんと志を持ってもいたのである。そして他の貴族たち同様、ルキウスもまた男尊女卑社会のレーマ帝国で生まれ育ったのであり、その文化にも価値基準にも疑問など抱いてはいなかった。

 そんな貴族がつい先月まで娼婦だった女に揚げ足を取られたのであるから、その心中は決して穏やかとは言い難い。表面的には苦笑いを浮かべつつも、内面では沸き立つ激情を抑えつつ、必死でどうしてくれようかと考えていた。ルキウスが理想とする貴族は、いかなるときであろうとも徒に感情を爆発させるようなことはせず、あくまでもスマートに振る舞うべきなのだ。そしてそこにユーモアを含ませることができたならベストである。


「お待ちください、


 他の貴族たちが唖然とし、ルキウス本人も対応を考えあぐねている中、声を上げたのは要塞司令プラエフェクトゥス・カストルムカトゥス・カッシウス・クラッススだった。意外な声の主に一同の注目が集まる。


「リュ、リュウイチアって、アタイのことかい?」


 そんな風に呼ばれたのは初めてだったので、リュキスカ本人も戸惑いを隠せない。


「リュウイチ様の聖女様サクラなのですから、リュウイチア様かと思いましたが、違いましたかな?」


 カトゥスはさもそれが当然であるかのように訊き返す。

 奴隷セルウスだった者は解放されて解放奴隷リーベルトゥスになると、一般にそれまでの主人の氏族ゲンスに加えられ、主人とおなじ氏族名ノーメンを名乗ることが許される。その流れから降臨者に捧げられた巫女サセルダや聖女も降臨者の名前を氏族名として名乗る習慣が出来ていた。リュキスカの場合はリュウイチの聖女なのだから、許しを得ればリュウイチの名を氏族名として名乗ることができる立場にある。この際、女性は氏族名を女性形に変換するので、リュウイチアと名乗ることになる。男性なら……たとえばリュキスカの息子フェリキシムスは男性なので、母であるリュキスカがリュウイチアを名乗れば男性形のリュウイチウスと名乗ることになるだろう。

 しかし、リュキスカは聖女となった今もまだリュウイチアとは名乗っていなかったし、リュウイチアと名乗る許可をリュウイチに求めてもいなかった。ルクレティアに遠慮していたからだったが、考えてみればルクレティアも公表していないだけで正式に聖女となっている筈なのだから、今更ルクレティアに遠慮する必要など無いような気もしてくる。

 リュキスカはどう答えたらいいか分からず、戸惑いも露わに横目でリュウイチをチラチラ見ながらカトゥスに応えた。


「いや、そうなのかもしんないけど、まだアタイ……その……」


 自分には図々しいところがあることをリュキスカちゃんと自覚はしている。だが、それでもさすがに氏族名を当人の許しも得ずに名乗ってはばからないほどではなかった。


『え、何? 何のこと?』


 急にリュキスカの様子が変わったことにリュウイチも戸惑った。これにはルキウスが答える。


「リュキスカ様の御名前です。

 聖女様サクラは通常、降臨者様の御名を氏族名ノーメンとして名乗る習慣があるのですよ。

 リュキスカ様の場合、リュウイチ様の聖女サクラなのですからリュウイチアと名乗ることになるでしょうな」


 ルキウスの説明に、そういえば以前聞いたことがあったと思いだしたリュウイチは、自分が嫁を貰ったような自覚が急に芽生えたのか「あぁ……」と分かったような分からないような曖昧な声を漏らし、顔をわずかに赤くした。ルキウスはリュウイチの反応を待たずにカトゥスへ説明する。


カトゥスカッシウス・クラッスス、リュキスカ様はリュウイチ様の聖女サクラとはなられたが、まだ正式にリュウイチアの名を頂戴してはおられんのだ」


 ルキウスがカトゥスにそう説明し始めると、リュキスカは何か恨めしそうにリュウイチを見つめる。リュキスカ自身に結婚願望のようなものは無かったし、リュウイチに対する恋愛感情のようなものも無い。だがフェリキシムスが大人になる前に何とかしてもう一つ名前を名乗れるようにしてやりたいとは思っていたのだ。彼女もまた、息子を筆頭百人隊長プリムス・ピルスにしたいと夢を抱くレーマ人の一人であり、将来の筆頭百人隊長に名前が一つしかないというのは寂しいと思っていたのだ。三つとまではいわないが、せめて二つくらい名前があってほしい。だが場末の娼婦ごときに自分の氏族名を名乗らせようなんて貴族ノビリタスはいないし、痩せた娼婦を嫁に貰おうなんて二つ名持ちの男もいやしない。娼婦が息子に二つ目の名前をやるのは容易なことではなかった。

 しかしそのチャンスは全く予想外の所からやってきた。リュキスカがリュウイチの聖女になり、リュウイチアと名乗れる権利を得かけているのだ。あとはリュウイチの許しさえ得られれば、リュキスカは晴れてリュウイチアと名乗ることができるようになり、息子フェリキシムスも自動的にリュウイチウスの名を名乗れる。


「そうなのですか?!

 それは失礼しました奥方様ドミナ、私はてっきり……」


 ルキウスの説明のわざとらしく驚いたカトゥスがリュキスカに話を振ると、リュキスカはハッと我に返って慌てて取り繕う。


「いやぁ、そんな別にいいんですよぅ~。

 アタイもホラ、こんな感じだしぃ?」


 それはリュキスカの強がりの態度だった。

 聖女になれば貰えるはずの名前を貰えていない……それはきっと自分が娼婦なせいだ……リュキスカはそう思い込んでいた。もちろん、リュウイチのことがまだ降臨者だとは知らされておらず、ただ高貴な身分で聖貴族だと教えられた時、自分もリュウイチアを名乗れるんだと喜びはしゃいだことはあった。だがその時、その場にいたルクレティアから嫉妬に燃える目で見られた瞬間に諦めてしまっていたのだ。だからリュウイチに名前を名乗る許しを得ようと願ったことは無かった。自分は娼婦であってルクレティアが制式に嫁ぐまでのだと自分を規定することで、リュキスカは貴族たち……特にスパルタカシウス家の悋気りんきかわそうと決めた時から、諦めていたからだ。

 だがこうして改めて第三者から言われると、当然の権利を否定されてしまったような悔しさが湧き出てくる。

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