第1392話 悪い報せ

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



「ルーナ!

 ディデウスも!?」


 セウェルスが呼びかけに答えるようにその名を呼ぶと、ルーナはまるでセウェルスに歩かせまいとするかのように急いで駆け寄っていく。駆けるとはいっても床に引きずりそうなほど裾の長い長衣ストラを身にまとっているため、その動きは小走りぐらいだ。その後ろを姉に付き添って来たのであろう、次男で末っ子のディデウスが追いかけてくる。

 要塞は軍事施設ではあるが要塞職員や軍団兵レギオナリウスの家族が面会に来ることは珍しくない。もちろん、家族だからと言って民間人が四六時中ウロチョロしていたのでは警備上も問題があるし好き勝手に出入りして良いわけではなかったが、セウェルスのようにそれなりの地位にある者ともなると家族や自前の使用人に雑用を頼むこともあるため、ある程度の融通は普段から利かせてもらえていた。

 とはいえ今日は週に一度のリュウイチへの報告会でセウェルスも要塞司令プラエフェクトゥス・カストルムカトゥス・カッシウス・クラッススに付き添って出席せねばならず、今もその準備で昨日あたりからずっとだったのだが、突如従兵が「お嬢様が急用とのことで面会に来られてます」と報告してきた。

 セウェルスの長男はもう成人しているし、長女以下残りの三人ももう十代だ。父親の都合も考えずに遊びに来るほど聞き分けの無い歳ではない。忙しくなることは分かり切っていて、下手したら家に帰れないかもしれないくらいだったので一昨日から「明日と明後日は忙しい」と家族には言ってあった。にもかかわらず子供たちが「急用」とまで言って訪ねて来たのは余程のことだろうと、セウェルスは仕事を同僚に預けて急いで抜けて来たのだった。


「どうしたルーナ、こんな時間にこんな所へ!?」


お父さんパテルレグリア伯母様マテルテラ・レグリアが大変なの!」


 ルーナはセウェルスの胸に飛び込まんばかりの勢いで駆けよってきたと思ったら切羽詰まった様子で訴えた。


「プリマが!?」


 トラヤニア・ウィビア・アヴァロニア・レグリアはセウェルスの実の姉でありネロの母親だ。セウェルスが彼女をプリマと呼ぶのは、結婚前の名前がトラヤニア・アヴァロニア・ウィビア・プリマであり、家族の中では一番上の姉という意味で「一番目プリマ」と呼ぶのが癖になっていたからだった。


「プリマがどうかしたのか?」


 トラヤニア・レグリアは脚が悪く、また愛息ネロが奴隷に堕とされたことを知ってからは酷く気落ちしており、セウェルスは姉を心配して妻と娘たちに自分の代わりに面倒を見てくれるようよくよく頼んでいた。今日も様子を見に行っている筈だったが、そのルーナがこんな所へかけて来たことでセウェルスは酷く動転する。そのセウェルスにルーナは自分の胸に手を当て、乱れた呼吸を整えてから続けた。


「今、レグリア伯母様マテルテラ・レグリアの所に、おかしな男たちが来たの」


 セウェルスは眉を顰めた。


「おかしな男たち?」


「リクハルドヘイムの、ラウリ様のつかいだって……

 ラウリ様がレグリア伯母様マテルテラ・レグリアに会いたがってるって」


 ラウリの名を聞いたセウェルスは驚いた。ラウリはリクハルドヘイムを治める郷士ドゥーチェリクハルド・ヘリアンソンの側近中の側近で、職業柄セウェルスも何度か会ったことがある。


「リクハルドヘイムのラウリ殿?

 リクハルド卿の側近じゃないか!?

 そんな人が何でプリマに!?」

 

 ラウリは元・海賊でブッカにしては体格が大きく、腕っぷしの強さではホブゴブリンにも負けないと言われており、実際かつてのエッケ島の海賊退治の際にはリクハルド配下のコボルトたちを当たり前のように従え、先頭に立って戦働きをしたことで知られている。

 初めて会った時はどんな荒くれ者かと警戒したものだったが、実際に会ってみれば見た目に反して礼儀正しく、言葉づかいはいかにもヤクザ者っぽいがちゃんと話の通じる人物だった。リクハルドヘイムの市街地 《陶片テスタチェウス》ではリクハルドの下で治安活動を担当しており、主要な店舗のいくつかの経営も任されているという。本人の知名度、実力、財力、そして従えている手下の数などを考えれば並の下級貴族ノビレスに充分に匹敵する存在だ。当然、普段から多忙なはずであり、リクハルドヘイムとは縁もゆかりもないマニウス要塞城下町カナバエ・カストリ・マニの未亡人なんかに用があるなどと言われてもちょっと想像がつかない。ラウリには既に妻子もいることだし、まさか色恋沙汰ではあるまい。


「それが、お金のことらしいの……」


「金!?」


「ラウリ様が何の用でお会いになりたいのか、もちろん訊いたのよ!?

 そしたら、ラウリ様がどこかでネロさんのことでレグリア伯母様マテルテラ・レグリアがお金を集めてるって聞いたらしくて……」


「まさか!」


 セウェルスは顔色を失った。

 トラヤニア・レグリアは奴隷セルウスにされたネロを買い戻すために金を集めようとしている。だが、彼女はネロが入隊する際に方々へ配ったのために既に親戚中から借金を作っており、これ以上誰からも金を借りれない状態だ。そして男尊女卑だんそんじょひ社会のレーマ帝国では女性に金を貸す金貸しはいない。レーマ帝国では女性にも財産権は認められているが、信用能力は認められていないからだ。

 レーマ帝国では奴隷取引が厳しく規制されているが、その規制を掻い潜るためにわざと女性に借金をさせ、債務超過におちいらせて返済の代わりに売春をさせるというような人身売買行為が蔓延まんえんしたため、現在は男性の保証人の居ない女性に金を貸して利子を得ることが禁止されており、それを無視して貸した金は返済責任が免除されることになっている。つまり女性に金を貸せば合法的に踏み倒されてしまうことになってしまったのだ。

 当然、トラヤニア・レグリアは金を借りたくても誰からも借りれない。親戚から借りる分には親戚の誰かが保証人になってくれるし、そうでなくても親戚づきあいを続けることを考えれば踏み倒すことなど考えられない。貸す方もトラヤニア・レグリアの返済能力がどのくらいあるかぐらいは知っているから、無理な金額を貸すことは無い。だが親戚からは既に返済能力いっぱいまで借りており、他から借りたくても親戚の男性は誰も保証人を引き受けてはくれないだろう。男性の保証人が付けられない以上、本職の金貸しがトラヤニア・レグリアに金を貸そうとしたら踏み倒されることを前提としなければならないのだから、貸すわけがなかった。

 結果、トラヤニア・レグリアは自分の唯一の収入源でもある農園を手放すことを決意したわけだが、そんなことをすればトラヤニア・レグリアはたとえネロを買い戻せたとしても生活力を失ってしまうわけだし、いま彼女が抱えている借金の返済も目途が立たなくなってしまう。

 第一、金を用意したとしてネロは刑罰の一環として奴隷に堕とされているのだから、一定期間は奴隷の身分から解放されない。つまりトラヤニア・レグリアは買い戻したネロを奴隷としてせねばならず、奴隷を所有する以上はその分の税金を納めなければならなくなるのだ。収入源を失ったトラヤニア・レグリアにはまず無理な話である。ネロを働かせたとしても、無駄な税金を払いながら極貧生活に喘ぐことになるに違いない。

 それにネロは奴隷ではあるが所有しているのはリュウイチ降臨者だ。その待遇は軍団兵レギオナリウスよりマシなくらいだったし、買い戻してから解放するよりはリュウイチから直接解放してもらった方が絶対にマシになる。何故なら解放奴隷リーベルトゥスは解放してくれた主人の氏族ゲンスに加えられ、主人の氏族名ノーメンを名乗ることが許されるようになるからだ。つまり、降臨者リュウイチの氏族の一端に加えてもらえ、しかも氏族名としてリュウイチウスを名乗ることが許されるのである。たとえ本人に魔力が無くても、降臨者の縁者として聖貴族の末席に加えられることになるのだから、ここで無理してネロを買い戻して身を持ち崩すのは、むしろネロのためにもトラヤニア・レグリア本人のためにもならないだろう。

 しかし、リュウイチの存在を秘さねばならない現状ではそのことをトラヤニア・レグリアに説明することができなかった。セウェルスはだから、トラヤニア・レグリアが売却しようとしている農園に買い手がつかないよう、あの手この手と使える手を全て使って防いできたのだ。それなのに、どういうわけかラウリが話に食いついてきてしまった。


 ラウリ殿ほどの人物なら、奴隷セルウスの一人や二人分の代金くらい簡単に用意できるだろう。

 いや、農園を丸ごと買い取るつもりか!?


お父さんパテルどうしよう!?

 お母さんマテル姉さんディアナレグリア伯母様マテルテラ・レグリアを説得してるけど、レグリア伯母様マテルテラ・レグリアったらラウリ様に会うって聞かないの」


「ラウリ殿は、いつ来られる!?」


レグリア伯母様マテルテラ・レグリアがウンと言ってくれれば今日にも来るって言ってたわ」


 セウェルスは手を打ち付けるように額を抑えた。


「不味いぞ……」


お父さんパテル、何とか来てくれない?」


 すがるようなルーナにセウェルスは苦しそうに首を振らざるを得なかった。


「無理だ。

 今日は、今日は本当に大事な会議で抜けられないんだ」

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