第1391話 駆け付けてきたルーナ

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



 奴隷セルウスと言う立場は非常に不安定だ。自分の運命は全て主人が握っている。気に入られていたり必要とされていたりする分には問題ないが、主人の気まぐれ一つで虐待されたり売り払われたり、果ては殺されたりもしてしまう。主人との間に信頼関係が築けていればまた話は別だろうが、いくらリュウイチが温厚な性格であったとしてもわずか一か月で自分の運命を握られていることに不安を感じないほどの信頼関係を築くのは不可能だろう。ましてネロは生まれて初めて奴隷に堕とされたのであり、奴隷生活というものにそもそも慣れていない。生真面目な性格の持ち主がたいてい共有している、物事を大袈裟に捉えてしまう傾向はネロも同じだった。そんなネロがリュウイチ主人から不信に思われているのではないか、リュウイチ主人から邪魔だと思われているのではないかなどとアルトリウス・アヴァロニウス・アルトリウシウス子爵公子に責めるように言われ、それが現にリュウイチ主人によってそのかたわらから強引に追い払われたりした直後だったともなれば、自身の未来予想を絶望で塗りつぶしてしまったとしても無理からぬところであっただろう。

 そもそも、ネロは八人の十人隊コントゥベルニウムの中で奴隷に堕とされたことで最も多くのものを失っていた。他の七人が元々天涯孤独の身であったり、自分から自ら取り巻く人間関係を捨てて軍団レギオーに入隊してきたような者たちであったのに対し、ネロは軍人一族の期待に沿って入隊志願したのだ。


 リウィウスは元々遊び人だ。生まれも定かでない孤児で、要領よく日雇いの仕事なぞこなしながら酒と女と賭け事に興じる毎日を送っていたのが、つまらぬトラブルから逃れるために軍隊に入った男で、親戚なんてものは最初からいなかったし、軍団の外には情婦と遊び仲間がいるくらいである。

 ロムルスは平民プレブスの子だが親兄弟とは既に生き別れている。要領の悪さ、うだつの上がらなさから三十過ぎた今まで結局所帯を持つには至らず、彼の生活空間は軍団の中だけになってしまっていた。しかも、持ち前の卑屈な性格から鼻つまみ者であり、軍団の中でさえ居場所は多くない。

 オトは七人の中で唯一の真人間だが、一昨年の火山災害で家族をすべて失っている。避難してきたアルトリウシアでは再就職先を見つけることが出来ず、やむなく軍団に入隊した男だ。やはり軍団の外の人間関係は希薄であり、これから再構築していこうとしていたところだった。

 ヨウィアヌスもリウィウスと同じように親の顔も知らない孤児であり、食いつなぐために子供のころから盗みを繰り返してきていた。仕事盗みの不始末から刑罰を逃れるために軍団に入った男で、今でも手癖の悪さは治っていない。泥棒が捕まらないコツは仕事仲間を作らない事と心得ており、他人との付き合いは表面的なものに留め、基本的には互いに利用し合うような人間関係しか作れない。当然、人間関係はせいぜい顔見知りがいる程度で極めて希薄だ。

 ゴルディアヌスは平民出身だが子供の頃から腕っぷしが強く、手の付けられない暴れん坊だった。年上の子供を喧嘩で打ち負かすほどであり、年下の子供たちからは慕われていたがそれ以外からは乱暴者としてうとまれていた。ゴルディアヌスは自分の腕がどこまで通じるのか腕試しのつもりで軍団に入隊したのだが、ゴルディアヌスの親や親戚たちは性根を叩きなおしてもらうために軍団に送り込んだというのは本人の知らない背景だったりする。兄弟姉妹は多かったものの、家族の多くは一昨年の火山災害で世を去るか他の親戚の元へ身を寄せており、アルトリウシアには一人もいない。当然、親戚たちでゴルディアヌスのことを心配するような者は居らず、本人も目の前の事以外に関心が向かない単細胞ということもあって軍団の外の人間関係は乏しい。

 アウィトゥスは裕福な商家の息子で何不自由なく育ったが、甘やかされて育てられたせいか世間知らずの甘えん坊であり、アウィトゥスの性格を見かねて急に厳しくなり始めた家族に反発して家出し、軍団に入隊した過去を持つ。ゴルディアヌスにはべったりだが軍団の外との人間関係は家出の際に自ら断ったままであり、彼の家族の側はともかく本人の側は何の関心も抱いていない。

 カルスもはやり親の顔を知らない孤児であり、親はおろか親戚も家族も居ない。火山災害のせいでアルトリウシアに難民の一人として避難させられた際に足の速さを見込まれて軍団へ誘われ、その時に募兵活動をしていた百人隊長ケントゥリオに「カルス」という名前を初めて貰ったぐらいなので、当然人間関係というようなものは持ってなかった。


 こうしてみると彼ら七人が奴隷生活に比較的すんなりと入り込めたのも多少は頷けようというものだ。そもそも根無し草同然だった彼らは環境の変化に対する抵抗が少なく、順応性が高い。だがネロは彼らとは違う。

 ネロの実家アヴァロニウス・レグルス家は軍人を多く輩出し続けた軍人一族であり、祖父は筆頭百人隊長プリムス・ピルスにまで昇りつめ、騎士エクィテスの称号まで得ているれっきとした下級貴族ノビレスである。父も軍人だったし兄も軍人だった。何なら母の実家も軍人一族であり、家族も親戚たちも皆が皆、ネロがアルトリウシア軍団レギオー・アルトリウシアに入隊して軍団兵レギオナリウスとして活躍することに何の疑問も抱いていなかった。それは父が戦死し、兄が殉職して一家の生き残りの男子がネロ一人になったことで、ネロに寄せられる期待は一層強まったと言える。そしてネロ自身、そうした期待を寄せられることに何の疑問も抱いていなかったし、むしろその期待に応えることこそが自分の生きるみちだと信じていた。


 一家の男が自分一人になってしまった以上、レグルス家を再興するには自分が軍人として大成し、名を挙げて嫁を貰って子を残すしかない。


 だが功名心に突き動かされたネロはあろうことかリュウイチ降臨者に攻撃を仕掛け、え無く惨敗……部下共々奴隷に堕とされてしまう。一族の期待を、家族の期待を、母の期待を、そのすべてを一身に受けながら、それに応えることだけを願った青雲のこころざしは、まだ短かった軍歴と共に絶たれてしまったのだ。彼の人生を構成していた社会とのつながり、それら一切が音を立てて崩れ去ったのだった。

 それでもまだネロは希望を持ち続けていた。降臨者リュウイチの下で従軍奴隷ガレアートゥスとして働きさえすれば、軍人としては無理でも武人としては何とか大成できるかもしれない。アルトリウスも奴隷の身分から解放された暁には、子爵家の私兵としてなら軍務に復帰できる可能性があることを示唆しさしてくれたのだ。

 ネロはそのかすかな……そういっていいだろう。微かな頼りない希望を胸に頑張り続けていた。せめて武人として働けるよう、日々の鍛錬をおこたることは無かったし、リュウイチのかたわらに置いてもらえるよう立ち居振る舞いも見直した。言葉づかいも改めるよう心掛けた。貴族ノビリタスの中には軍人の所作を野暮やぼったいと嫌う者もいることを、ネロは聞いたことがあったからだ。それはネロの信じた軍人として大成するための途からは大きく外れるものではあったが、最終的には武人として大成し家を再興するための唯一の途だった。だからこそネロはその途を進む。全ては亡き父、亡き兄、そして生き残った唯一の肉親である母の愛情に応えるために……


 しかし、ネロの知らないところで彼の目指す未来には影が落ち始めていた。


お父さんパテル!!」


 マニウス要塞司令付き事務官カッリグラプス・プラエフェクティ・カストリ・マニセウェルス・アヴァロニウス・ウィビウスが失われた左足の代わりに杖を突きながらヒョコヒョコと身体全体を揺するように階段を降りていくと、要塞司令部プリンキピアの中央ホールから聞きなれた声が響いた。顔を上げるとそこには彼の愛すべき娘と息子の姿があった。

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