第1390話 ネロの不安

統一歴九十九年五月十二日・午前 ‐ マニウス要塞司令部プリンキピア・カストリ・マニ/アルトリウシア



「自分でありますか?」


 自分が突然引き合いに出されたことにネロは表情を強張らせた。

 ネロは真面目な性格だ。誇り高く、逆境の中でも自らの理想を貫こうとする強い意志を持っている。七人の部下たちがそろいもそろって問題児だらけだったのに、ネロの十人隊コントゥベルニウム軍団レギオーの中でそれなりに機能していたのは、問題児たちに囲まれても指揮官であるネロが不良古参兵たちの影響を受けることなく自分を律し続けていたからこそだった。しかしネロのような周囲の悪影響を受けない芯の強さとは、他人との間に壁を作り己の心を閉ざすことで成し遂げられる場合が多い。ネロはその典型だった。自分をあえて孤立させることで周囲から自分を守るのだ。

 おそらく今のネロもリュウイチに対して距離を置こうとしている。今のネロの態度はリュウイチと普段接している時よりも硬く、軍人然とし過ぎている。奴隷セルウスとして引き渡された直後の、リュウイチから初めて衣服や装備品などを渡された時にネロがとっていた態度とまるで同じだ。あの後、ネロは軍人ではなく貴族の使用人らしく振舞おうと、言葉遣いや態度を改めていたのだが、今は今朝まで確かにみられていたはずのそうした様子が見られなくなってしまっていた。それはネロがリュウイチに対して、心の中に壁を作って精神的な距離を開こうとしていることを示している。


 多分、今一番に誤解を解かなきゃいけないのはネロだ……


『言っておくけど、私は君について不信に思ったことは無いよ。

 君のことも、ロムルスのことも、他のみんなのことも信じているつもりだ』


「……し、しかし旦那様ドミヌスは……

 旦那様ドミヌスは先ほど、自分を遠ざけられました……」


 ネロはわずかに声を震わせて抗議する。


「じ、自分のことが邪魔になったからでは、無いのですか!?」


 奴隷にとって最も恐ろしいのは主人の不興を買うことだ。主人は奴隷の持ち物、主人は奴隷の生殺与奪件を握っている。人権主義や平等主義といった思想が《レアル》から持ち込まれ、ある程度奴隷にも権利が認められているレーマ帝国であっても、その事実は根本的には変わらない。ある程度、奴隷の境遇を保障することが義務付けられ、また奴隷の取引について規制がかけられてはいるが、主人が奴隷の運命を握っている絶対者である点だけは何も変わらないのだ。

 ネロも軍命に背き、処刑される代わりに奴隷としてリュウイチに売られた身である。刑罰の一環として奴隷に堕とされた身であるから、金を積んだとしても一定期間の間は奴隷の身分から解放されることは無い。一応、リュウイチが《レアル》に帰れば奴隷から解放される予定にはなっているし、その後の生活についてもアルトリウスに面倒を見てもらえることになっている。アルトリウスもそのためにネロたちを被保護民クリエンテスにしたのだ。

 だがもしも何かの理由でリュウイチの逆鱗に触れ、ネロたちを見捨てることになれば、ネロたちはいつ殺されてもおかしくはないし、売り飛ばされてしまうこともあり得る。ネロたちがアルトリウスの被保護民とされ、リュウイチの帰還後に解放してもらえるというのは、ネロたちが奴隷としてリュウイチ仕えながらリュウイチの情報をアルトリウスに齎すことが条件になっている。それなのに売り飛ばされて約束を果たせなくなってしまえば、ネロを解放して被保護民として保護してやる理由もアルトリウスには無くなってしまうだろう。次の主人が酷い人物なら、そのまま虐待死する可能性だって無くは無いのだ。そも、主人に背いた奴隷なんかにまともな買い手は付かない。軍命に背いた元兵士となればなおさらで、買い手のつかない奴隷をあえて買い求める主人がまともな人物の筈はなかった。

 リュウイチに邪魔者扱いされて敢えて話の途中でルキウスへの遣いを命じられたのだと指摘された時、その直後にルキウスから追い払われた時、そしてその後アルトリウスから叱責を受けた時……ネロの胸中に去来した物が何だったのか、想像するに難くはあるまい。


 今度こそ、本当に奴隷セルウスに堕とされる……

 母上マテル、ゴメン……もう、会えなくなるかも……


 それは世界がグラグラと揺れるような異様な気持ち悪さと共に襲い掛かった、正真正銘の絶望だった。今、それでもリュウイチの前で平然としているように見せているのは一種の虚勢であり、騎士エクィテスの家系に生まれたネロの矜持の成せるわざだったのだ。


『……あの場で、君のことを邪魔に思ったのは事実だ』


 その冷徹な一言にネロは息を飲み、顔を青ざめさせた。世界が再びグラグラと揺れ始めるような眩暈めまいに、瞼をピクピクと痙攣させながら必死に耐える。


『だが、君を不信に思ったから邪魔になったわけじゃない。

 むしろ、君のことを信じていたから、邪魔になると思ったんだ』


「ど、どういうことか、おっしゃることがわかりません」


 リュウイチの見たところネロは今にも爆発しそうな感情を必死に抑えこんでいるように見える。言葉を慎重に選ばねばならないと覚悟を新たにしたリュウイチは大きく深呼吸する。だがそれはネロからはリュウイチが溜息をついているようにも見え、ネロの焦燥感を高めた。


『落ち着いて聞いてほしいんだが……ネロ、君には私は随分助けられている。

 私はこの世界のことはほとんど何も知らない。

 文化も慣習も法律も歴史も知らない。

 この世界の常識というモノが何一つ分からない。

 そんな私に君はルクレティアと共に色々と教えてくれた。

 失敗しそうになると、その都度指摘してもくれた。

 今後も、そうしてくれると、助かる』


 ネロはリュウイチをまっすぐ見据え、気を付けの姿勢のまま聞いているが、その見開かれた目はキラキラ光って見えた。多分、涙ぐんでいるのだろう。


「で、では何故……」


 リュウイチは思わずネロから目を逸らす。自分のしたことがそれほど悪いことだとは思っていなかった。むしろ適切なことだったと思っていたが、こうもネロを傷つけていたかと気づくと無性に罪悪感が沸き上がって来るのを抑えきれない。


『君はリュキスカがグルギアを受け取ることに反対していた。

 だから、多分、私がリュキスカにグルギアのことを話す時、きっと反対意見を言ってくると思ったんだ』


 リュウイチはそこで言葉を区切ると、ボリボリと頭を掻き、そして続けた。


『それはきっと君の心からの忠告なんだとは分かっている。

 だけど、リュキスカに説明する時にそれは要らない。

 話がスムーズに進まなくなってしまう。

 だから、いったん、離れてほしくなったんだ。

 なんていうか……誰かと揉め事を起こして、その仲直りするための話し合いをすることになった時、わざわざ武器を見せびらかすヤツなんか居ないだろ?

 どんな優れた道具だって、無い方がいい場面ってのがある。

 君が奴隷だから道具だとか、そういう意味じゃないんだ。

 でも、人間も同じで、その場にいてくれない方が話がスムーズに進む場面ってのはあると思うんだ。

 だからその……』


 チラリとリュウイチの視線がネロへ戻る。


『君が要らなくなったというわけじゃないし、君のことを信用してなかったわけじゃない。

 君が私のために忠告してくれる、そう信じているからこそ、あの場でだけ君に離れてほしかったんだ。

 それは理解してほしい』


 ネロは鼻の頭を赤くし、口元やらなにやら顔のあちこちを小さく震わせながらリュウイチの話を聞いていたが、リュウイチが話し終えると一度大きく鼻から息を吸い、口を真一文字に引き結ぶと「分かりました」と短く答えた。

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